第175回　原爆が落ちた日

たった今、街からサイレンが響いてきた。
8月6日午前8時15分。荘厳な鐘の余韻にも似たその響きは、1分ほど続いて、止む。市役所の誰かの声が続く。「黙祷おわり」。

ありがたい行事だ。おかげで、うん、今日は広島に原爆が落ちた日だった、その3日後には長崎でも原爆が炸裂した、そしてどんな交通事故も地震も津波も顔負けする膨大な数の人々が殺され、さらに多くのひとたちが原爆症で命を落としたのだった……と思い出す。
いやはや戦争が一番悪い、どんな理屈があってもやってはいけない、いや、やらせてはいけない、わずかとはいえ税金払って運営にかかわっている日本国には、戦争も戦争の手伝いもさせてはならない……と新たに思う。

戦争被災のなかでも、広島・長崎の原爆ほど、虚しいものも珍しい。もう日本国の負けは決まっていた時に、まるで新型爆弾の実験でもするかのように、アメリカ合州国は広島に原子爆弾をぶちかました。
その余りを、まるで捨て場のないゴミをポイ捨てするかのように、長崎に投下した。
その後、どちらの国家も栄えたけれど、原爆で苦しみ死んだひとたちは戻らない。原爆のみならず空襲で苦しみ死んだひとたちは戻らない。人間の愚かさが情けない。

そういえば昔、ドイツのオッペンハイムという田舎町で過ごしたことがある。後にそこ産の白ワインが有名だと知った。たしかに旅館の亭主が地下から持ち出してくる白ワインは、すこぶるうまかった。名はオッペンハイマー。
このごろ、その名がハリウッド映画の題として、ちらほらネットに出てくる。
あら、あのワインが映画になるのかしら、と思っていたのだが、違った。
原爆を発明した博士の名だった。

同時にその映画を巡って、製作会社ワーナー・ブラザースが、公式にネット上で謝罪した事件を知った。同社は今、この映画と同時に〈バービー〉なるコメディ映画で大当たりしているそうな。
同社の公式サイトはそのことで賑わい、いろいろな投稿が寄せられた。なかに、バービーの女優と〈オッペンハイマー〉の原爆を合成したオメデタイ絵の投稿があり、それを同社が喜んで紹介したことが、ネット雀の批判を呼び、同社が公式に謝罪した、ということらしい。
CNNの記者がマジメに報じた記事で事件を知ったわけだが、同時にこの記事で2本の映画の存在を知り、内容に興味を持ちもした。つまり、制作会社の不祥事には宣伝効果も十分あったわけだ。情報社会とは皮肉なものである。

原爆の発明者がそのあまりの被害に苦しんだ、という話は、幼い頃に聞いていた。
しかし彼の名より白ワインの名を記憶していた。
現代の若者が原爆をバービーちゃんなみにオメデタク扱って平気なわけだ。〈黒の舟歌〉ではないが、女も男も忘れ貝、なのだ。

原子力と戦争。人間にとっての2大災難を体験した広島・長崎を語り継ぐことの大切さを、この夏、改めて実感した。
市に鳴りわたる黙祷サイレンは、ささやかなりとも、その努めを立派に果たしている。

雨だれ

伊豆新聞に連載中　その725（2023年８月９日掲載）

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