第38回 白黒のワンピース
最近私は、自分とワンコの体温調節と体調管理をしながら生きるのが精いっぱい。ほんまにもー夏ってこんなに暑かったかしらん?昭和の夏はスイカと扇風機で充分だった。平成生まれの息子は、エアコンとスポーツドリンク。令和の夏はマスクとline?
これだけ世の中変わったんだもの。妙なことの一つや二つ、考えている人もいますって。それが実現できてしまう情報もある。武器弾薬どころか核兵器の作り方までくわしーく載ってるんだから恐ろしや―。
そこに「私が正しい」という信念が加わったら、もうあかん。敵をつくって戦っちまうでしょうが。戦争は「正しい!」と「正しい!」のぶつかり合いっこ。正しい!何がどう?誰が?あれー正しいかな?ぐらいにすればいいのにね。まあ、いろんな方とは一度にわかり合えないんだから、のったりくったり時間稼ぎ。みんなで生き延びんとね。それが話し合いということですかぁ。
宗教も然り。信じるものは救われるって?ほんまかー。たとえ最悪な出来事が起きても、それって宗教と関係あるんか(・・? そもそも、それって不幸せな出来事なん?
私は昔なら罰があたったと言われた姿形でこの世にこんにちは〜した。で、今から60年前、若かりし母のもとには、がっかいさん・キリストさん・手かざしさんなど、たくさんの方が「救い」のセールスにやってきた。ちなみに、祖母の実家は天理教だったと記憶する。母はそれを理由にどちらさんとも浅―くお付き合いしていた。選挙の時だけのお友達にも嫌な顔をせず、キリストさんからお名前を頂戴し、ておどりを舞った。
私との付き合い方は難があるが、周りとのおつきあいはバランスよくこなしている風に子供ながらに感じていた。
母の口癖は「下をみてなにも落ちてないけど、上を見てもきりがない」「なんでもバランスが大事や」だった。えっこれって平和の基本やん((´∀`*))
恐れずに言うと、私のような少数民族的な体の持ち主は、どの宗教においても「特別な人」なのだ。時として、宗教もまた数の暴力になりかねないことを、私は幼い頃に「理」ではなく、「肌」で感じた。
信心してもなにも救われへんよぉ。楽しく生きてなんぼのもん。これが15年前、夫の後を追わなかった女の悟りだ。でも、今月は年に一度の命日。ご縁があったお寺さんには顔を出そう。お西さん(西本願寺系)のこのご住職は決して心に触れない。いつでも涙のお顔をむき出せます。
だけどさー、30年前、結婚式の二次会に着た白黒ワンピース。コサージュを取ったら、こんな具合に重宝するとは思わなかった。
で、17回忌っていつするんですか?確か来年と思うんですが。すっすみません(;’∀’)