第20回 働かない人生からの…
なにはなくとも、この人と一緒にいたい。どんな苦労もこの人となら厭わない。だから結婚した。
ここで息子の突込み「そりゃー違うわ。この人となら、お金の苦労もなく生活できると思ったから結婚したんやろ」が入る。
まっ確かに、うちは父ちゃんだけの稼ぎで家族3人食べていた。けど、その笑み止めなさい!
さらに「母ちゃんはお き ら く」と人差し指を振る。ほんまにもおー。
だって、私、誰からも働くことを求められなかったんだもの。特売日調べて、たまに市民モニターなぞをしてごろごーろ。それでもピサの斜塔体はあちこち痛む。首痛に苦しみながらも、優しい父ちゃんの腕に抱かれてごろごーろと一生を終えるはずだった。が…
えぇーなに?なんで私が父ちゃんの亡骸を胸に抱えてるねん。
と、今ならさらりと言えますが、14年前の7月は夜毎の号泣でした。よおーご近所さんから苦情が出なかったもんです。
収入が途絶える。人の波がウソのように引く。「あー私は父ちゃんありきの存在だったんだ」ってこの時知りました。当時45歳だった私が、父ちゃん喪失の悲しみから抜け出せなかったのは、こんな現実から逃げていたかったのかもしれません。
お一人様一年金を知ってなお、働く人生があることをしばらく忘れておりました。
ヘルパーさん・友人知人・鍼灸師さんに支えられて、身も心もゆるゆる元気になりはじめた頃。これからの人生を賭けて息子と大勝負。やっちまいました。
彼は辞めた大学に復学を臨んだ。私はご遺族ケアーを学びに大学院チャレンジをしていた。落ちたほうが受かったほうの学費を働いて払う!あまりにもアホゥな母子の賭け。今明かしました。
で、結果は・・・息子は再入学。「私、あなたが家で勉強している姿なんて見たことがないのになんで」と驚く私に「隣のファミレスで勉強しとった。おかんは?」と満面の笑み。私は書類選考で落ちた。あーあー・てことは。
ぎょえー。私が働く?働かねば!働きま…働けるの?
その時だった。「ちぃーちゃん・働いてみるか?うちも障害者雇用を考えていたとこや」古くからの友人知人がいる場所が、幸運なことに職場になった。日本で一番小さな出版社「りぼん社」(今は同人誌しずく)で書き続けてきたご縁だ。
悲しみに暮れる私を遠巻きに5年も見守っていてくれる人がいたんだ。私、シングルになったけれどひとりになったわけじゃない。頑張ってみるか!
それにしても、50歳からの就職!なんて、人生何が起こるかわかりません。
僅かな貯金を切り崩すことなく学費が払えればいい。週3回の非常勤職員生活は7年続いた。学費に加わった結婚祝いはまだ入用ではないみたいですが。
おきらく母ちゃんは、少しの間だけでも頑張ったんです。
自分は自分でほめてあげないとね( ´∀` )
「たかだか、7年のパート生活やないかい」っていうなよ!
50歳にしての社会人ですよ。私も皆さんも大変だったんですからね。