第18回 専業主婦というお仕事 その3
こうして母になりました
婚姻届けを出し、夫の赴任先の教職員住宅に住み始めた頃の私は、まだまだ娘気分。
体も今よりうーんと動けていたし、ここでの暮らしが落ち着いたら、友人を訪ね歩こうなあんて思っていた。
そんな時、突然コウノトリは舞い降りた。社宅から電車で30分の総合病院。普通なら「おめでとうございます」だ。が、ここでも私は規定外。いくら特徴ある妊婦に出会ったことがないにせよ、結婚している夫婦に家族計画を聞くドクターって?どうよ。
で、里帰り出産を念頭に月一度、実家の目の前の大きな病院に。検診と歯科治療に往復4時間かけて通った。つわりもそんなにひどくなく、歯が時折ボロッ・グラッとなるぐらいで3330グラムの男児と無事ご対面。ドラマのような感動に浸れる余力もなく、とりあえず「出したあ」という安堵感でぼおーっとしていた。その傍らで、夫がぎこちない手つきでわが子を抱いた。
きっと、うちは交際3年で夫になった彼が、「父になる」覚悟をした時に、コウノトリが来たのだ。その頃は男性教諭の「育児休暇」なんぞなかった。が、工業高校で実習があるぶん教員数も多く、男の団結力?とやらで、夫は「半休」をちょこちょこ取りながら、父業もこなしていた。
とはいえ、こどものそばにいるのは、家にいる私。
また、こいつが母遣いのプロだったんよ。幼い頃は「お母ちゃん、僕が結婚してあげる」小学校の時には「母ちゃんの病気は僕がなおしてあげる」中学生の頃は「お母ちゃんの病気がなおしたら僕の母ちゃんじゃなくなる」高校生になっても「母ちゃんは家にいて僕のかあちゃんだけしといたらええ」てな具合に時々魔法の言葉をかけよるんだ。
でも、これらの言葉は父ちゃんがいて母ちゃんがいる前提やったんよねー。
父他界で母シングルになった時、こいつは多感な19歳。あの無邪気な仮面はどこで脱ぎやがった?
私は体も心も不器用なので、いつも目の前にある大切なことをひとつ選んで生きるしかなかった。専業主婦を志したわけでもなかったが、すぐに息子が授かった。優しい夫と楽しい息子と時を過ごせたことは、人生の宝だ。人は、その時間が二度と帰ってこないことを知るとき、初めてそのしあわせに気付く。
妻となり母となり、夫をあの世に見送り、息子をこの世で見送り、その時々に私は空っぽになった。
私は新たな私に出会うのに、たくさん悲しみ、苦しみ、少々時間がかかる。
女の子たち!よーくお聞き。魔法はいつか覚める。自分を幸せにしてあげるのは究極自分なのだ。ママになって、その子が大きくなった時に、誇れる自分・なりたい私になる夢も努力も捨てない方がいい。女男平等の旗が一応ある現代(いま)も、仕事を持つ女も出産を機に7割が職場を離れるという。
女は母性神話に加えて乳が出る。加えて不安定な雇用環境にある。ここで貧富問わず、専業主婦が一定数うまれるのだが…。

2年越しの母の日のプレゼントは、青のあじさい
花言葉「辛抱強い愛情」に笑った!