第32回 わがまま婆さんと意地悪おばさん 前編
(同人誌 季刊「しずく」から転載)
「婆さんがちなつちなつ言うてる。正月ぐらい、りか連れて帰ってこんか」受話器越しに父はわかりやすい嘘をつく。母が会いたいのはうちのワンコ・りかだ。秋口、コロナが少し影を潜めていた頃、りかをみて以来、母は「私も犬が欲しい」と言っているらしい。さすがにあり得ないとは思うけど、91歳の父が89歳の母の最後のおねだりを聞き入れたらどないしょー。少し不安だ。
「電車で一駅っていうけど、ワンコ連れは厳しいわ」と告げても、母のメイには逆らえない父「ちなつ・迎えに来たよ。婆さんが待っとる」と、元旦うちのリビングを陣取る。無下に追い返すわけにもいかず、「小一時間だけなら」とドッグカートにワンコを入れ、重い腰を上げる。通常ワンコと出かける時は、最低限うんち袋とお水がいる。長時間、人様のお宅にお邪魔する際には、それに加えて、トイレシート・ご飯・おやつがいる。それらを用意していると「何もいらへん」と父は急き立てる。意地悪な娘は「ほんまやなー。知らんで―」とすべてを置いて、白いものが舞う中、父と実家に向かった。
ちなみに生き物を飼ったことはない。だけど、いつの間にか、私は「マルチーズのまる」と育ったことにされている。母だけではなく、父までが記憶を塗り替える魔力を持ってしまった。
実は、ワンコを迎えたことを両親にはしばらく言えずにいた。小さい子供がワンコをひらって帰って親に「返してきなさい」と叱られるのではないかという気持ちで、びくびく飼っていた。
でも違った。りかを見て、「まあ・かわいらしい。ちなつよかった。あんた、ふくちゃん(亡き私の夫)が逝ってからずっと独りやろ。昼はええけど夜はどないしてるんかと思うねん。これで寂しくないやろ」と母は大喜びした。そして、次の瞬間、かつて我が家にも「まる」がいたことになった。
ちなみにうちは団地で、動物の飼育が禁止だった。それに私は幼少期、気管支喘息を患っていた。いとこの家でマルチ―ズが近づいただけで咳をしていた。よく追い回されて、転んで「ワンワン嫌い」ってピーピー泣いた。だから、犬を飼ってほしいと一度も言った覚えはない。
おそらく母は、もう転ぶことすらできない還暦前の娘が、犬を飼いだしたことに驚いたはずだ。
コロナ禍出歩かなくなり、通院もままならず、自分を清潔に保つことも厳しくなっているしんどさも母もまた身をもって感じているはずだ。自分のお世話も厳しい娘が犬と暮らしている。娘は大丈夫(・・?心オドオド心臓ドキドキ、加えて頭瞬時に働いて「そうだ。千夏は小さい頃にも犬を飼っていた」と実際にはなかった記憶がイン!。
「まる」は、母が心配から逃れるために誕生した。私たちは「まる」と仲良く暮らしていたらしい。
一枚の写真もないけれど…。