第35回 おっちゃんのこと
子育てもひと段落した頃、「おばちゃん日記」のような原稿を一度きりのつもりで持ち込んだ。そこで、日本で一番小さい出版社・りぼん社「そよ風のように街に出よう」の編集長と出会ってしまった。
当時、小学生だった息子に手を引かれ「編集会議」にも参加。夕方から電車に乗り、なんだか親戚みたいな大人たちに囲まれることを彼は嫌がらなかった。むしろ「母ちゃんのお稽古事」の同伴を楽しんでいるようだった。自分の稽古事はしぶしぶ行くこともあるのに、
「今日父ちゃんの帰り遅いんやろ?しゃーないな。ついていったろ」と、マンガとお菓子をリュックに詰め玄関でスタンバる。皆から頂く夜のコーラーもきっと格別の味だったに違いない。翌朝、布団にかく世界地図も慌てふためきながらする宿題も、彼にとってはノープロブレム。
こどもたちよ。恐れることなかれ。きみの前に立つ先生も親もこんな感じだったんよ。昔のことは言わないだけさ。あっはは。
コロナ禍、大人の寄り合いに子供が顔を出す光景も減ってしまったのではないだろうか。いろいろな大人をみて、こどもの心は育つのにね。私も…少しは育ったのかな?
まっとにもかくにも、母にも「宿題」と「締め切り」があること・書く仲間がいること・ぶっきらぼうで優しい「編集長」という人がいることを息子に知られてしまった。以来、一度きりの原稿は20年以上続いている。「そよ風のように街に出よう」は終刊。編集長の河野のおっちゃんは他界してもなお…。季刊誌「しずく」(soyokaze@hi-ho.ne.jp)という形で読者さんと共に歩み続けている。
河野のおっちゃんはぶれない書き手でもあった。最後まで取材相手にも時代にも媚びないスタイルを変えなかった。
「千夏ちゃんがいく」のデビューを知ると「おう。でも、本はなかなか売れへんよ」と、前を向いたまま言った。「おっちゃん・ほんまに形になったよ」と本を手に話しかけたのは、手足も枯木のように細くなり、意識も返答もないと言われた病床だった。「そんなもん読まんでも知っとる。ずっと見てきた」おっちゃんの顔が語った。
数日後、職場だった(被災障害者支援団体)ゆめ風基金の電話が鳴った。瞬時にそれはおっちゃんの死を知らせることだと思った。「ほなっ」数時間前に私の耳元だけにおっちゃんの声が降っってきたからだ。同僚にそっと告げる。「私は昨日やった。ひとりで残業してた時に、お疲れーって」
笑って送ってさしあげよう。そう。笑って…。
勤務7年。
おっちゃんにご縁頂いたゆめ風基金を退職する数か月前から、私は写真のおっちゃんとにらめっこ。ある日、穏やかな笑顔を背け、こういわれた気がした。
「好きにしい」
あの時…
深々頭をさげ「ありがとう」が言えたのは、おっちゃんの写真だけだった。
「あんたは…ちぃ」おっちゃんの舌打ちが聞こえる。
思いだして会いたいとしゃくりあげてしまう編集長は今のところ彼だけだ。