第7回 ファーストキスもラストキスもご用心あれ
とにかく、ここから早く脱出したいと、心のどこかで思っていた。家よりも母の手も目も届かない場所を探していた。でも、それは、人として自然な成長の過程だったのかもしれない。私が不登校にならなかったのも母のなせる業だったわけだ。―( ´∀` )
コテコテの大阪弁が飛び交う地で、幼少期を過ごした。走るとすぐ転ぶ私は、三輪車と駒付自転車を乗り回す毎日だった。「ちなっちゃんは駒なし自転車に乗られへんのとちゃうで。駒付自転車は誰よりも早いんもんな」といわれた。だから、時折、小さい子に勝負を挑まれたりもした。小学生とちびっ子たちが混ざった公園は、いつも賑やかだった。
淀川を離れ、千里っ子になったのは小学4年生。きっと同級生たちは、初めて見る「みんなと少し違う格好」の転校生に戸惑ったはずだ。でも、すぐにおのおの仲間・あるいは意地悪をする対象として関わりはじめる。
先生の見ていない隙に、私に代わって地球儀を作る子。ドリルをなぞる子。給食を捨てに行く仲間もできた。
千里ニュータウンは坂道が多く巨大迷路みたいだからって、自転車は買ってもらえなかった。駒付の赤い自転車はブイブイいわせた公園に置いてきた。どこにいてもご近所さんの通報で母がやってくる九つのレディスは、消えた。
空気がきれいなところに越してきたのに、喘息はあまりよくならず、学校も休みがちだった。
前なら、学校をお休みしても、こっそり自転車で公園に行けたのに…。だから、母がパートから帰ってくるまで、父のスポーツ紙の活字を追った。競馬予想から官能小説まで、ところどころ漢字も意味もわからないけれど、なぜかはまった。
中学にあがると、体力がついたのか、貯えていたエネルギーがあったからなのか、喘息も出なくなった。好きな子を絶対取られることがない安心感と、人の秘密を言いふらすには不適切なお口を持つ私は、この頃から女子によく恋愛相談をされるようになった。
私は、中学3年間、バレーボール部のキャプテンをコートの金網から眺めていた。
そんなある日突然、私のファーストキスは、奪われてしまう。
それが、あこがれのこの君なら書かずにすんだのに。違った。
45年経った今もこの時の犯人の顔をうっすら覚えている。エレベーターで不意に唇を軽くつけられたのは、まったく見知らぬ小柄の子だった。私の全く望まないファーストキス、いやファースト痴漢加害だ。私は後になってあの時のあの子は善悪の判断がつきにくい子だったんだと想像してみた。でも、あかんもんはあかん!
それからしばらく知らない人と二人でエレベーターに乗れなかった。
加えて、このことは今の今まで誰にも言えずにきた。
ラストキスは夫の亡骸なのは、みなさんの知るところですが。
いやはや、これは自己責任なんだけど、皆さんには決してお勧めできません。
ラストキスはご用心あれ。