第31回 募金活動のなぞ その2
人様から頂いたお金を人様に差し上げる。基金活動の一番シンプルなのは、カンパ箱をひっさげて街に繰り出す方法だ。私も被災障害者を支援するNPO団体の職員だった頃、白いものが舞う日にも街頭に立った。
お仕事とはいえ、少々きつかった。思いもやる気もあるん(・・?なぜ?何がどう辛い?と自問した7年だった。
まず「被災障害者」ではないから、声高々に「ご協力を」と叫べなかった。それに見てくれはばっちり障害者なんだけど、中身は、運動と言えば息子の運動会を連想するただのおばさん。
そんな「被災」とも「障害者運動」とも無縁の私が、2月の空を見上げていたのは、息子の「もう一度なりたい自分を探したい夢」を信じたからだ。
そりゃー健常者の夫にあっさり先立たれるハプニングを経験した。そして、身をもって「人は人のためにできることは僅か」だと知った。縁あって、東日本大震災の次の年におそるおそるNPO団体職員になったのはいいけれどだ。
NPO職員って団体の顔みたいなもん。「こんな私でよかったら、そっと隣に置いてください」というスタンスではなかなか厳しい。
それに、私はほんまに弱い!夫が病状悪化の一路を辿った時、すたこらさっさっと逃げたかった瞬間があったもの。わちゃー言うてしもた。
そんな私をよく知る息子に、退職時「おかん・しんどい時、俺のために…っていちどだけいうたやん。あれってほんまやったん?」と問われた。「まあね。でも、それだけじゃなかった。きつかったけど心が躍ることもあったし。あんただけのためなら、学費完了の時に辞めてた」「そうか。ならよかった。。これからは、ゆっくりと生きろ。おつかれでした」
母遣いの名手は、最近、震災を知らないコロナ禍の子どもたちに、なにをどう伝えるか悩んでいる様子。人前で何かを披露したり伝える仕事・教員はどうやら続けているらしい。
「被災障害者支援活動NPO法人ゆめ風基金」は、阪神淡路大震災の時、発足した。
あの時、幼稚園児だった息子は、いつも通り登校していく父を追わなかった。
「仕事だからね」にっこり微笑み、見せた背中は大きかったんだろう。
母の背も少しは見たんだろうか?
基金活動というなぞのお仕事も教員もいうお仕事も、どんなお仕事も同じ。
「お仕事だからできる」
でも、誰かを思うからできるのだ。
寒い冬、傾いた体は腰痛激しく、起き上がりはSADAKOポーズ。
この体を街頭に立たせる気力は、もうない。
ケチなおばさんは、保護犬の今日の糧にと握った手の中の500円玉を、カンパ箱に入れることすらためらってしまう。これこれ、ぽとっと放しなさい。自分のお腹に贅肉がつかぬうちに。
目の前の人、見知らぬ誰かを想い、行動できた50代はなかなかしあわせやった。
さあて還暦までわずか。どんな60代になりますかいな。
えっ60代振り返りの年って?
SADAKOを超えます!