第16回 専業主婦というお仕事 その1
永久就職ではない
社会に出ようとしてみたものの、働くには「規格外」とされ、仕事を求め、滋賀県の北まで流れ、信楽焼の工場に。「力もない手先の器用さもない、大卒のプライドだけを持つ「お嬢ちゃん」を教授から預ったものの…」と、社長のため息に隠された言葉も今ならお察しできる。
信楽焼は、土づくりー形作りー色付けー包装といろいろな工程がある。商品開発・納品管理・営業・経営も必要だ。障害あるなしに関わらず、それぞれの能力をいかして、皆プロの自覚を持っていた職場だった。
「君ね‥」「君は・・・」と数か月したある日、「これは君が書いたの?」と機関紙の記事を手に社長は聞く。「うわー怒られる」と内心青ざめた。「君、この日ここに行ってないよね」と、やはり続いた。「はい、みなさんの話を聞いてまとめました」「そうかー」と社長はにんまりした。この日から、社員遠足や地域との交流の記事を書くお手伝い。職場になかなか来られない方への手紙。ご近所さんへのお礼状を書く役目をいただけた。
石の上にも3年・みんなともなじんだ頃の「コトブキ」退職を伝えた時。
「おトイレの時手伝ってって気軽に言える人がいなくなる」「お昼ごはん美味しかったのに」「日曜日一緒に遊べなくなる」とは言われたけれど、仕事が困るとは誰からも言われなかった。気づくと、あとから入ってきた若い子たちは、簿記を習ったり、調理師の資格をとったりしていた。
この時私は、働き方も働くことの大切さも少ししか学べなかった。自分を弁護するつもりはないけれど、1960年代に生まれた私たちは、「コトブキ」退社も、女の幸せの選択肢とされていた。加えて私は、「男は仕事、女は家事と子育て」の光景の中で育った。
で、25歳で私は大好きな人の胸にすっと飛び込んだ。
専業主婦という職業が世の中に成立するのか?と、廃業した今は思うのだけど、私は障害者年金が遺族年金に変わる日まで無職とは書かなかった。20年足らず、私は自身を専業主婦と呼んでいた。
でも、夫と子供の「行ってきます」と「ただいま」は永遠に続かないのだ。
人生100年時代・専業主婦、廃業後あなたはどうします?
4月から仕事に復帰する古くからの友人が「子育てだけで精一杯なのに…」と少し不安げな声で近況をくれた。
「保育園に入れたんだ。よかったね。こどもは、まあ社会に育ててもらって。私が言うのもなんだけど、仕事は続けた方がいいよ」そう!パパも社会人を目指した。ママも社会人になりたかった。大学卒業までは女の子も男の子も関係なかったはず。
「あっちびさん起きた!パパも母乳が出たらいいんですけど」と、スピーカーフォンに切り替わる。「あはは・そればっかりはね。まあぼちぼちやって。またねー」と電話を切る。
光陰矢の如し!妻も母も夫も父も、自分の大事な大好きな一部であるけれど、同時に何かになろうとする努力も怠らない方がいい。
しあわせに気付かないほど幸せな毎日が続いていた頃には、気づかなかったけれどさ。

黄色のすいせんの花言葉ーあなた帰ってきて( ´∀`)