Vol.21 ハンガリー その(1)
東の友だち、イルディコ
金髪で青い目のイルディコは、私の友だちだ。「友だち」と呼べる友だちが実際にはどのくらいいるのであろうかと沈思黙考するに、50人ばかりであろうか。アドレス帳をめくって(古いねー。スクロールして、でしょう)仰天したことには、そこには1500名以上の名前が並んでいた。友だちでなければ知り合いということか。顔も履歴も思い出せない名前も多々見受けられる。名刺交換などするはずもなく、仕事らしい仕事もしていないのに、なんなんだ、この数は。多すぎるだろう。削除だ、削除。なぜこんな数に膨らんでいるのか。
唯一思い当たるのは、私が、仙人まではいかなくても相当長く生きているということくらいである。でも、どうなんですか? 人と比べたことはないが、このくらいの数は驚くに当たらないのだろうか。「わて、営業部長でおます」ということになれば、アドレス帳に3千、4千人なんて当たり前なんですかねえ。一般教養に疎い私には皆目見当がつかん。でも、ま、それは友だちじゃないよね、その数千人は。知り合いとも言いがたい。仕事の関係者、とか? 定義はわからんが、正直に思ったことをぶつけられないとか、利害関係があるとかだと、すっきりさっぱり「友だちです」とは言えない。でしょ?
とにかくイルディコは、どの基準に照らしてみても、きっぱり私の友だちである。削除しまくっても、最後の50人に残る大切な友だちである。言っておくけど、ブロンド&ブルーアイという、見た目で友だちを選んでいるわけじゃないっすよ。

彼女は、私が英国のエマソン・カレッジに入った最初の年(92年)のクラスメイトだった。たった8人しかいないクラスですから、親しくもなりますわねえ。とはいえ、だからといって誰とでも真の意味で親しくなるわけでもない。話しが合う、なんて言うにはまず会話ができなくてはならないが、当時の私は英語ができなかった。言葉ができれば友だちになれるかっていうと、それはない。キーワードは「なんとなく」である。なんとなく面白い(つまらない)と思う。なんとなくやって(やらないで)みる。なんとなくわかる(おかしいと思う)。なんとなく好き(嫌い)。この「なんとなくセンサー」の凄さによってヒトはヒトである。説明できないその向こうに、コンピュータにはプログラミング不能な、複雑怪奇な思考や考察回路があるのだ。ただ、このセンサーが正常に働いてない人は多い。環境や私利私欲で妙なことになってる。
ま、とにかく。私たちは「なんとなく」お互いを選び、友だちになった。イルディコはハンガリー人で、私よりふた回り近く年下で、その頃二十歳をいくつか過ぎたくらいだったと思う。彼女は、英語教師になるための英語のブラッシュアップと教育課程を学ぶため、そのカレッジに3年間在籍した。同じクラスにいたのは1年だけだが、クラスが別になってもよく顔を合わせた。夜中までおしゃべりをすることもあった。私の英語力も、カタツムリ的速度ではあったが以前よりはましになっていた。でも、他の人と夜を徹して語り合うなんてことはなかったから、やっぱり彼女との付き合いは特別だった。

"東の友人"たちは、皆、大人なんだ。東欧の開放は87年。カレッジには、東ドイツ、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ロシアから来ている学生たちがいたが、共通していたのは、クールな客観性と西の諸国の学生には見られない素朴さだった。常に政治的影響を受けながら生きてきた彼らは、的確に、そして無邪気にシニカルな分析や判断を口にした。その反面、彼らの真摯な思いやり、純情や恥じらいは、とっくの昔に私たちから奪い去られた宝だった。私は彼らといると、能天気な自分の無知と愚かさと、消費世界に犯された人間のみすぼらしさを感じずにはいられなかった。
話したいことがあるときには、イルディコは真っすぐ私に向かってきた。世界には私と彼女だけしかいないかのごとく。からだが触れそうなくらい近づいてきて話し始める。恋人同士ならともかく、この距離感で会話を体験したことがある人は少ないと思う。15センチくらいのところに彼女の顔がある。青い目がじっとこちらの目を見る。目を逸らす、話しを逸らすというのが不可能な距離。お互いの顔をそんな至近距離で見ていると、やっぱり世界には二人だけしかいないような気になる。彼女がそうやって他の人と話しているのを数回見かけたことがあるから、あれは彼女の真剣な対話の際の、無意識なスタイルだったのかもしれない。集中して自分の思いを伝えるための。集中して相手の思いを読み取るための。(続く)
