Vol.13 フランス /パリ ー 陰影が物語をつくる街
思春期の頃、シャンソンが大好きだった。美しい言葉だと思った。こういった子どもは「生意気」なんだろうか。「おませ」?「ロマンチスト」? 自分じゃ自分のことを解析したくないからそれ以上は考えないでおこう。掘り下げない方がいいこともある。しかし、フランスの作家のものはよく手にして読んだから、なにかしらフランス的なものに惹かれる傾向が私の中にあるのかもしれん。
フランスというと、華奢というか繊細、粋なイメージである。例えば女性。さりげないアクセサリー。かすかなコロンの香り。絶妙な配色で全身を包む。これはまあ、フランス人男性にも言えることではある。最初にパリに行った時には、道ゆく人道ゆく人がモデルのように見えたものだ。これ見よがしのオシャレではなく、DNAに刻み込まれたファッションセンス。伝統の力というのはこんなところに現れる。ルーブルの美術品ばかりでなく、そこらを歩くパリジェンヌ、パリジャンたちの中にも観賞に値する美意識を具えている人がたくさんいる。「線が細い」というのは、どちらかと言えばマイナスイメージで使われやすい言葉だが、「細い線の良さ」というものも確かにあって、その魅力は時には抗い難いものでもある。心をくすぐり、浮き立たせる。
ニューヨークという都市はその若々しさに時に心が躍る。どこか無鉄砲になれる。パリはもっと大人で繊細で、陰影が深く心のひだに沁み入るようなところがある。国の歴史の長さや生い立ちも関係しているだろう。おそらく居住者の平均年齢はパリのほうが高いのではないか。パリを歩くとやたら味のあるマダムやおやじさんを見かける気がするんだけど。
散歩するにはサン・ジェルマン・デ・プレ界隈が楽しい。裏通りには小さな店が所狭しと並んでいる。観光客だなー、あたし。食べ物屋、骨董店、書店、指輪だけを取り扱ってる店なんてのもある。狭い石畳の通りは、歴史に名を残している文筆家や政治家、アーティストの亡霊たちがふらりと歩いていたりする(気がする)。
いまでこそ日本でもマカロンは大人気だが、私が最初にマカロンなるものに出会ったのはサンジェルマンだったですよ。20年ほど前。角の小さな店の脇に、あきらかに観光客でない人々の行列があったので、何だかわからないままに並んでみた。3段ほど階段を降り店に入るとガラスのケースがあり、やや古めかしいデザインの黒いお仕着せを着たギャルソンが、こちらの選んだマカロンを白い手袋で取り分け、淡いグリーンのクラシックなデザインの小箱に詰めてくれる。お呼ばれの時の手土産? 以来、マカロンを見かけるとパリのあのちょっと薄暗い店とセットで思い出される。
カフェランチしている友人のWooちゃん。
飲み物はパナッシュ。ビールのレモネード割り。
サンジェルマンの近くの、セーヌの川岸の屋台の古本屋を冷やかすのも楽しい。
いつだか、店をやっているおじさんのランチを見たことがある。古書と並んでセロハン紙に包まれたホットドッグ。おじさんは三脚の丸椅子に座って、まさにそのホットドックにかぶりつこうと手に取ったところだった。やや小太りで、ハンチングを被っている。客が立ち止まって本を手に取っても、話しかけられるまでは口を開かない。本が好きだからこんな仕事をしているんだろうか。それとも稼ぎになるからと誘われて始めた仕事なのだろうか。毎日やって来て、ぱたぱたと屋台を広げるのだって、結構な労働に違いない。本好き、人好きでなければ続かないだろう。並んだ本は詩集が多かった。観光客は、セーヌ川岸の古本屋で買ったランボーの詩集よ、と帰ってからも旅情を繰り返し味わうために読めないフランス語の本を買う。すでに日に焼けて古ぼけていた本は誰かの本棚で、ゆっくりとさらに時を経ていく。
パリ以外では、観光客向けの古本屋なんて見たことない。愛欲や罪、人の情念のすべてを肯定し、愛のために死すことがいまだ生きているフランスの言葉は、ロマンチックな思い出にふさわしいからかもしれない。
そういう私も、本棚に読めない本が数冊ある。読まないが時々手に取って読めない文字を追ってみる。挿絵が気に入ったり、紙質が良くてという場合もあるが、読めないということがうれしくて買ってしまうこともある。文字のエネルギー、著者のエネルギーは、一冊の本に凝縮される。どれだけ生きても、何でもわかるわけじゃない。私には想像もできないところで、計り知れないことを考え、呪文のような言葉を使って物語や詩を書く人がいる。そのことが私をじんわりと泣きそうにさせる。