伊豆新聞に掲載された過去の記事からピックアップしたものです。
ここでしか読めない過去の最新アップもお楽しみに!!

 
 
 

その9 幼馴染みのトクラくん
(2009年4月8日 伊豆新聞に掲載)

40年前のあの時、もう少し正確に言うと1969年、音楽事務所のプロデューサーは、熱心に、こんなふうに推薦した。「トクラくん、まだ大学生なの。チナッちゃんと同じ年。趣味でバンド作ってやってるんだけど、演奏はともかく、作曲がいいのよ。とてもセンスがいいの。彼の作曲でやってみない?」。そうすることにした。
これがトクラくんの運命の別れ道になった。
推測に過ぎないけれど、父親が外交官だったり、自身、帰国子女、いや帰国男子で名門校の法学部だったりしたことを思うと、積極的にプロになるつもりはなかったのではないかと思う。私との曲がヒットする、という「アクシデント」さえなければ、官界か実業界、あるいは法曹界、いずれにしても固い生涯を送ったのではなかろうか。

その年の9月に出した私の「あなたの心に」がヒットするや、彼はひっぱりだこになった。そして、期待に応えてヒットを連発し、あれよあれよと言う間に、和製ポップス界の大御所になっていったのだった。
ただし、そのあと私と作った曲は、一曲目ほどヒットしなかった。作曲のせいではなくて、私が不熱心な歌手だったからだ。
極めつけはやっぱり、76年、ピンクレディのデビュー曲「ペッパー警部」だろう。ダダダダンダンダダダダダン、ユッフォーッ(「UFO」)も大流行した。作曲家の名前はふだん意識しないから、今、調べてみて驚いている。うわさを信じちゃいっけっないよっ、というあれ、山本リンダの「どうにもとまらない」もトクラくん。しっとりしたのでは、ペドロ&カプリシャスの「ジョニィへの伝言」や「五番街のマリーへ」もそう。こりゃ大御所になるわけだ。

トクラくんこと都倉俊一さんと仕事したのは、2年間ほど、71年までだった。その後は疎遠で、二度ほど、思いがけず遭遇したことがあるだけだ。それが、最近、ひょんなことから、ひょんなところでよく会うようになった。
5年ほど前だろうか、JASRAC(日本音楽著作権協会)という団体の評議員というのになった。会議に出てみたら、いたのだ、トクラくんが。その後、年に数回ある評議員会や総会で、顔を合せるようになった。同じ評議員でも、トクラくんはずっと前から理事をしている。ま、国会で言うと、与党。私のほうは、ここでも相変わらず野党中の野党。
最初はなんかヘンだったけど、だんだん、「チナッちゃん」「トクラくん」に戻ってきた。ふふふ、幼なじみだもんね。
ところで、なぜ評議員になったのかというと・・・それは次回のお楽しみっ。


わらわら豊作空き地のワラビ

その8 「歌声喫茶」で
その7 ♪あなたの心に

その6 プレシルクラブ

その5 仲間はいいな
その4 決行!伊豆急全線ウォーク
その3 カワヅザクラのこと
その2 こうして伊豆半島人になった

その1 ただいま雑記を始めます

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