伊豆新聞に掲載された過去の記事からピックアップしたものです。
ここでしか読めない過去の最新アップもお楽しみに!!

 
 
 

その3 カワヅザクラのこと
(2009年1月21日 伊豆新聞に掲載)

実態としては造園業なのだが、母はその人を植木屋さんと呼んでいた。ぜひ、これになさい、とその人が力説したそうだ。それで、母たちはそれを、分譲地の並木に決めた。手間賃を惜しんで、大方は自分たちで地を掘り、植えつけた。完全管理をうたっていた不動産屋が、分譲間もなく倒産、逃走したために、やむなく買主たちは自治会を結成し、幸か不幸か、井戸の管理から並木の選定にいたるまで、自分でするしかなくなったのだ。一九七五、六年当時、家はまだ数軒、常に住んでいるのは我が家だけだったから、いきおい母が諸事取り仕切るかたちになった。

伊豆高原の高級別荘地を真似たかったのかどうか、母や自治会の肝入りたちは、小さな分譲地を巡る環状道路を、桜で飾りたいと考えた。そこで、うちの庭を造ってくれた「植木屋さん」にお定まりのソメイヨシノを注文したところ、強く新種を勧められたのだった。
並木は育った。ほかの桜より一足早く、珍しい濃い桃色の花を開いて、まだ冷たい春の空気を温め、住人を大満足させながら、年々、育った。それと同じ桜が、河津町の名物として観光の目玉になるのは、ちょうど我が並木が堂々たる見栄えに育ったころだった、と思う。全国的に有名になったので、カワヅの並木は、いっそう母の誇りになった。「わたしゃこれ、キライですな、色が濃すぎて」とうっかり言った新入り自治会員は、当分母からケンツクされていた。「河津よりここのほうが見応えありますなあ」と褒めた来訪者は、とてもいい人に分類された。

ある日、NHKテレビで、カワヅザクラを採り上げるというので見ていたら、例の「植木屋さん」が出てきたのでびっくりした。よく見知った笑顔だが、動きも声もない遺影だった。若くしてすでに故人になっていたことは、身近な出来事として知っていた。けれども、彼こそがカワヅザクラを世に広めた第一人者だったとは、この番組で初めて知った。彼、勝又光也さん。河津町の飯田勝美さんというかたが川端で若木を発見、自宅に移植して育てた。それを見た勝俣さんが惚れ込み、接ぎ木で増殖させ、世に広めた、と聞く。

今年もそろそろ分譲地が桃色に染まる。勝俣さんの熱意と母の自慢顔が、あでやかな花びらの影からまた覗くだろう。


住民手植えのカワズザクラ

その2 こうして伊豆半島人になった
その1 ただいま雑記を始めます

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