伊豆新聞に掲載された過去の記事からピックアップしたものです。
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その2 こうして伊豆半島人になった
(2009年1月14日 伊豆新聞に掲載)

み〜かん〜のは〜なが〜さあいている〜、と私は歌った。母が購入したいという伊豆の土地に反対するためだ。心底では、土地の購入そのものがいやなのだ。不動産や株の売買は嫌い。ローンを背負うのは私だし。だから難題を出した。海際はダメ。山方がよろしい。景観はこの歌のように、「お船も遠く浮かんでる」でなければいけない。また母たちが住むのならいいが、別荘はダメ。それから、近くを小川が流れていれば完璧だな。
なぜか伊豆に惚れ込み、海際の一地を購入しようとしていた母は、がっかりして不動産屋へ断りに行った。ところが、理由を聞いた不動産屋は、膝を打って叫んだという。「娘さんの希望にぴったりの土地があります、まだ分譲前ですが、ぜひ見てもらってください」。

連れてゆかれて呆然とした。まったく歌のままの風景なのだ。それもそのはず、あの歌はまさにご当地を歌った歌だった。時は1946年、伊東市の小学校でラジオ放送の中継をした。その時、少女歌手川田正子が歌うために急遽作られたのが「みかんの花咲く丘」だったそうだ。
しかしまだ、そうとは知らなかったから、私はただただ驚いていた。おまけに分譲地は、みかん畑の跡地で、放置された木々に実がなり、なんとすぐそばには小川まで流れていた。母たちはここに移り住むと張り切っている。もはや反対の理由はない。

かくして翌年には、家を建てた。その分譲地で最初の家だった。それからほぼ三五年。家屋も常住の隣人も増えた。私はずっと東京に住んでいたが、昨年の秋、母が倒れたのを期に東京の住処をたたんで、とうとう移住を果たした。
我が家の門柱には、表札の代わりに、「花林舎」と屋号を記した銅板がはまっている。カリンシャは私の命名。銅板は、新築祝いに和田誠さんが贈ってくださったものだ。名前だけではぴんとこないかもしれないが、『週刊文春』の表紙をはじめ、多くの単行本のカバー、広告や挿絵、そして絵本などを山ほど描いているから、和田さんの絵を見たことのない日本人はいないと思う。若き日には煙草ハイライトのデザインをしている。

さすが和田さん、我が家を花林舎と命名した私のイメージを、見事に、そして愛らしく図案化してくださった。花木に囲まれた家でありますように、と願って、母や祖母はせっせと周囲に苗木を植えた。年を経て、願いは見事に実現している。特に自慢できるのは・・・それは次回のお楽しみっ。

その1 ただいま雑記を始めます

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