伊豆新聞に掲載された過去の記事からピックアップしたものです。
ここでしか読めない過去の最新アップもお楽しみに!!

 
 
 

その8 「歌声喫茶」で
(2009年3月25日 伊豆新聞に掲載)

レコードを出しませんか、と言ってきた音楽事務所のプロデューサーは、面白い企画を考えた。詞は、私が書きためていた詩もどきからひとつ選んだ。それは、初恋の相手を想って書いたもので、今やとても恥ずかしくって口には出せない代物だけれども、当時は平気だったのですね、それを歌おうとしたのだから。
そして作曲は、若者の競作から選ぼう、というのがプロデューサーのアイデァだった。といっても、公募ではない。当時、「ニコニコ堂」という若者の創作集団があった。それに目をつけた。(彼らの師匠、永六輔さんや、彼らが連載していた雑誌『若い生活』の編集長、のちの『話の特集』の編集長・矢崎泰久さんと知り合って懇意になるのは、もう何年かのちのことだ)。

かくして1969年のある日、私は競作会場に赴いた。当時流行していた「歌声喫茶」(思えばあれはカラオケの前身だね)、新宿の「灯(ともしび)」(だったと記憶する)が会場で、閉店後のがらんとした店内に、十人ほどの若者が、ギターを抱えて待ち受けていた。作曲もさることながら、同じ年頃の彼らに興味津々で、私は次々と披露される曲を聴いた。変わった名前のひとが多かった。いや、今では平凡のきわみかもしれないが、当時はとても斬新だったのだ、「喰始(たべはじめ)」なんて名前は。たしか「かぜ耕士」もいたと思う。

テレビオタクの若者なら、ここで「おおおっ」と感動してくれるだろう。フツウ一般の方々でも、今や大御所のタレント、マチャミこと久本雅美はご存じだろう。華奢で内気そうな青年、喰始は、その直後、放送作家としてデビューするやめきめき売り出し、八四年ごろには劇団「WAHAHA本舗」を創立してその作・演出をてがけるようになる。その仲間が久本雅美、佐藤正宏、柴田理恵などだ。
がっしりした感じのかぜ耕士も、当時の人気バラエティ番組、NHK『スタジオ101』のオリジナルソングの作詞を皮切りに、今日までのテレビを語るのに欠かせない存在になっていった。

こんなコたちに競作させたのだ、と思うとなんだか誇らしい。彼らの活躍と交差するようにして私はテレビを退いたので、その後、会うことは滅多にないが、会うとお互い、一挙にあのころに戻って、単純に喜ぶ。彼らの活躍をテレビで見ると、嬉しい。
しかし、彼らの曲はといえば、イマイチ印象に残らなかった。そこでプロデューサーは、ひとりの大学生を抜擢することにしたのだが・・・それは次回のお楽しみっ。


歌うフクジュソウ(うちの庭で)

その7 ♪あなたの心に
その6 プレシルクラブ

その5 仲間はいいな
その4 決行!伊豆急全線ウォーク
その3 カワヅザクラのこと
その2 こうして伊豆半島人になった

その1 ただいま雑記を始めます

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