あんなこんなそんなおんな・・・・・昔昔のその昔 第66回

■生きるということ■

佐古和枝(在日山陰人)

あらら、千夏さんところもですか。こんな場で私事を書くのは恐縮ですが、うちの父も数年来の認知症が昨年末から急速に悪化して、一人で介護していた母も軽い脳梗塞で倒れたりしたもんだから、もう限界。4月にとうとう入院してもらいました。

介護に疲れて、父の顔も見たくないと言っていた母も、「帰りたい」とダダこねながら病院の窓から無邪気に手をふる父をみると、涙がとまらない。自分を責めてしまうんですね。どうにもしてあげられないまま、娘サコはただ母をなだめ、子供に戻った父と遊んであげるのみ。
千夏さんの新著『友達の作り方』、またまた教わることがたくさんありました。とりわけ、家族も夫婦も「公的関係」なんだという指摘、さらに家族も夫婦も「友達」にしてしまえという提案は、目からウロコでした。
サコにとって両親は、暴君とそれに従う妻。親だから逆らえない。息苦しくも遠い存在でした。その暴君がボケてくれたおかげで、妻と子は自立し始めたんですよ。母は、世のふつーの妻のように、亭主に逆らうようになった(笑)。ボケた父は、周囲の迷惑などトントお構いなく、いままで見せたこともない穏やかな笑顔満面の日々です。

こういう状況になって、サコは母とも父とも友達になれた気がします。親子だからという上下の支配関係はすっかり薄れ、親子だから共に生きていくために手をとりあおうという絆は深まり、それでも助けてあげられることには限界があるから、ほどほどの距離で支えあう。同志みたいな感じです。
古代人は、おそらく生きるということに必死だったから、ズルズルべったりの親子の執着などにかまけている余裕はなかっただろうと思います。たしかに母親は本能的に自分の子供に執着するものでしょうけれど、動物によって、執着する時間の長さは異なっているのではないでしょうか。たぶん人間がいちばん長期間、その執着心をもち続けるんでしょうね。

いえ、大正時代でも「最近の親は子供の機嫌をとるようになった」みたいなことを、民俗学の父・柳田国雄が、少し揶揄気味に書いてたっけ。親子が息苦しいほど濃密な関係になったのは、つい近年のことみたいです。
 生きるということに、さほど必死にならなくてもよい、豊かで平和な時代であればこそ、親子間の執着や、夫婦間の確執などが顕在化するってことなのかな。ともあれ、お互い、疲れ果てない程度に、そして悔いを残さないように、がんばりましょ!