あんなこんなそんなおんな・・・・・昔昔のその昔 第15回

■歴史はどこにでもつながる■

中山千夏(在日伊豆半島人)

前回のコラムを読んだ組員から、次のような主旨のメールが届いた。「佐古さんの文章の全体から受け止められる主旨については全くその通りなのだと思う。しかし、<他力本願>という言葉の使い方は、一般的なもの、本来の意味からかけ離れたものであって、<浄土真宗教団>関係者からは抗議のメールがあってしかるべきものになっている。
スポーツ紙などでは、プロ野球のリーグ戦で全日程を消化した球団が、他球団の勝敗によって優勝を左右されるような場合によく「他力本願」という言葉を使うが、かつて教団は何度も説明と抗議をくりかえしてきた。
今はどうなっているかわからないが、このあたりの事情も調べて考え直してほしい」
私は一般人なので平気だったが、なるほど言われてみると、巷での「他力本願」の使われ方は、親鸞の思想の根幹としてのその言葉を曲解し、揶揄するものに違いない。親鸞の教えに帰依する人々には口惜しく腹立たしいものだろう。私も今後、公の発言では、この言葉を安易に使わないように気をつけよう。野球報道する人々も気をつけようね。
尻馬に乗るわけではないが、ついでに野球報道関係者に言いたい。キャッチャーを「女房役」と言うの、やめてちょうだい。性的役割分担意識丸出し。実に不愉快。スポーツ報道は全般に言葉をもっと考える必要がある。世界大会のテレビ中継で「大和魂」や「大和なでしこ」が連発されるのを見た時には、その時代錯誤と歴史認識の甘さに唖然とした。現代日本は「大和人」だけで成り立っているわけではない(沖縄人、アイヌ人、津軽人などなどで成り立っている)のに。「大和魂」を押しつけられてひどい目にあった歴史を持つ日本人も数多いのに。
それにしても、別の角度から見ると、「他力本願」という言葉のあり方は、浄土真宗というもののあり方をもよく表していると感じ入る。使っている人々の大半は、その本義を知らない。出典を知る人も少ない。それが庶民の日常会話、スポーツ新聞、果てはクイズの問題にまで使われてきた。一教団の用語で、これほど世に浸透した言葉も珍しいのではないか。親鸞の活動、教団の姿勢、この言葉自身が持つコピー的魅力、など考えてみると、これはなかなか面白い歴史的テーマだ。
あれ、思わず大脱線しちゃったが、今回は再質問するつもりだったんだ。佐古センセー、お答えなかったんだけど、どうなんです?、縄文人は卵、食べてたんですかぁ?