第53回「雪絵ちゃんの願い(1)」

山元加津子(在日石川人)

 このお話しは、雪絵ちゃんという素敵な女の子のお話です。彼女は、「一人一人がみんな大切で、自分のこと大好きでいいんだよ」ということを、伝え続けてくれました。沖縄の講演会でおしゃべりをしたことをテープ起こしして、それを5回にわけて連載させてください。

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 雪絵ちゃんの話をします。雪絵ちゃんと出会ったのは病弱養護学校という養護学校でした。病弱養護学校というのは、心臓病だとか、喘息だとか、ネフローゼだという慢性の病気を持っておられて、地域の学校に通うことが難しいお子さんが通っておられる学校なんですね。そこで雪絵ちゃんと出会いました。

 雪絵ちゃんはMSという名前の病気を持っておられました。MS、別名多発性硬化症という病気です。
 どんな病気かというと、熱が出ると、目が見えなくなったり、手や足が動かしにくくなるという病気なんです。見えないまんまかとか動かしにくいまんまかというと、そうではなくて、訓練をしている間に、だんだん見えるようになったり、動くようになったりするんですけれど、でも、発熱する前のところまで回復するというのは難しいので、だんだん見えなくなったり、だんだん動かなくなっていくという病気です。
 それから見えないまんまということもあるし、動かないまんまということもあるんですね。だから、私は雪絵ちゃんはどんなに再発するたびに、どんなに怖いだろうと思うのにね、雪絵ちゃんはいつもいつもね、とても元気に立ち直るんですね。

 雪絵ちゃんは空から降る雪に、絵と書いて雪絵と言います。雪絵ちゃんは12月28日生まれ、雪の降ったきれいな朝に生まれた女の子なんですね。

 雪絵ちゃんは多発性硬化症、MSという病気を持っていたわけですけれど、雪絵ちゃんは口癖のように「私はMSであることを後悔しないよ」と言いました。「MSである雪絵をそのまま愛しているよ」と言いました。

「どうして?」と聞くと、

「だってね、MSになったからこそ気がつけたことがいっぱいあるよ。もしMSでなかったらその素敵なことに気がつけなかったと思う。私は、気がついている自分が好きだからMSでよかった」と雪絵ちゃんは言うんです。

 そしてね。MSになったからこそ出会えた大好きな人が周りにいっぱいいるよ。かっこちゃんにも会えたしね。もしMSでなかったら違う素敵な人に会えたかもしれないけれど、私は今周りにいる人に会いたかった、かっこちゃんに会いたかったから、これでよかったよ。目が見えなくなっても、手や足が動かなくなっても、息をするときに、人工呼吸器をつけなくてはならなくなっても、私はMSであることを決して後悔しない。MSの雪絵な丸ごと愛しているって。

 そういうふうに言い切る雪絵ちゃんはなんて素敵なんだろうと思います。その雪絵ちゃんが、言っていることとか、それから、話してくれていることとか、書いてくれていることとか、素敵なことがいっぱいあって、私はいつも、雪絵ちゃんから元気や勇気をいっぱいもらうなあと思います。
 これは幸せ気分という雪絵ちゃんの書いた本なんですけれど、ここから少し紹介させていただきます。

ありがとう

ありがとう、
私決めていることがあるの。
この目が物をうつさなくなったら目に、
そしてこの足が動かなくなったら、足に
「ありがとう」って言おうって決めているの。
今まで見えにくい目が一生懸命見よう、見ようとしてくれて、
私を喜ばせてくれたんだもん。
いっぱいいろんな物素敵な物見せてくれた。
夜の道も暗いのにがんばってくれた。
足もそう。
私のために信じられないほど歩いてくれた。
一緒にいっぱいいろんなところへ行った。
私を一日でも長く、喜ばせようとして目も足もがんばってくれた。
なのに、見えなくなったり、歩けなくなったとき
「なんでよー」なんて言ってはあんまりだと思う。
今まで弱い弱い目、足がどれだけ私を強く強くしてくれたか。
だからちゃんと「ありがとう」って言うの。
大好きな目、足だからこんなに弱いけど大好きだから
「ありがとう。もういいよ。休もうね」って言ってあげるの。
たぶんだれよりもうーんと疲れていると思うので……。


 とこんなふうに続いていくんですけれどね、私ね、なんてすごいんだろうって思ったんですね。
 だってね、たとえば、私、山の方に住んでいるんですけれどね、車がないとね、どこにも行けないんですよね。お買い物にも行けないし、学校にも行けないし。
 でもね、あるとき、参観日の大事な日なのに、車が途中でとまっちゃったんですよね。それでね、どうして、こんな大事な日にとまっちゃうのよ。新しいのに買い換えちゃうからね、って車に言ったんですね。
 私はそのとき、雪絵ちゃんのありがとうの詩を思い出しました。私は車がなかったらどこにも行けないんですね。毎日毎日運んでくれているのに、ありがとうって思ったことがあっただろうか? それなのに、私は動かなくなったら、「なんでよ」なんて思って、おまけに、私がガソリンをちゃんと入れてなかったからだったんですよね、それなのに、車を責めている私ってなんだろうってそんなふうに思いました。