心なごみませ  第36回

「カンボジアの象とベトナムの少年」

山元加津子(在日石川人)

 カンボジアへ出かけたときのことです。
 バスは、アンコール・ワットから山道へ進んでいきました。到着したのはプノン・バケンという山でした。バスがとまっているすぐそばに象が3頭いるのがみえました。その象は、観光用にかわれていて、象に乗ってこの山をのぼることができるということでした。
「ここで生まれた象?カンボジアに野生の象はいますか?」
「戦争で、動物はみんないなくなりました。象もいません。今いるのは、猿だけです」

 ガイドのソチアさんの言葉に胸がつまりそうになりました。ついこのあいだまで戦争が、あったということは本で読んだり、お話を聞いて頭ではわかっていたつもりだったのに、でも本当にはわかっていないのですね。アフリカで野生の象に出会えて本当にうれしかったし、アンコール・ワットを作ったのも象だと聞いていたので、もしかしたら、他にも象がこのジャングルにたくさんいて、ひょっこり顔を出してくれたらどんなにうれしいことだろうという思いが私にはあったのです。
 タイでも象は、ビールにも、飲み水にも、それからゴミ箱にも絵が使われていました。だから、象はきっととても大切でそして、身近な動物なんだろうと思いました。きっとお隣の国のカンボジアだって同じはずです。でも戦争というものは、人だけでなく、当たり前だけど、動物や植物にもとても大きな影響をあたえるんですよね。「今は猿がいるだけです」そのとき、淡々とソチアさんはお話されたけれど、それは本当はとても大きなことなのだと思いました。
 
 カンボジアの一日の観光を終え、ホテルへ帰ってから、私はホテルのお隣の小さなお店を覗きました。そのお店は、日用品を売っているお店でした。シャンプーや石けん、それから、洗剤・・・たわし・・そんなものを売っているお店でした。お店の奥に座っているおばあちゃんが私に「スパニッシュ?」と言いました。スパニッシュ?スペイン人っていうことかな?「ノー」おばあちゃんはなんだかがっかりしたようでした。お店の品物を並べていた男の人が「ニホンジン?」と少しアクセントの違う日本語で聞いてくれました。うんとうなづいたのに、おばあちゃんは、また「スパニッシュ?」と聞くのです。たぶん「違うよ」と男の人が言うと、おばあちゃんは悲しそうに首を振りました。おばあちゃんはスペインの人を待っているのかな?私はアジア人にしか見えないだろうに、それでもスペインの人だといいなと思ったのかな?私もがっかりして、私がスペインの人でなくて、おばあちゃんの待っている人でなくて、すまないなあと思っていたら、おばあちゃんが、細い腕で、私の頭をぽんぽんとさわってくれました。私はちょっとだけ涙が出そうになりました。

 お店のすぐ前を男の子がお魚を持って、通りかかりました。「お魚?」そう聞くと、お店の男の人は、道路の前の泥の池を指さしました。
「わ、あそこで、お魚がとれるの?こんなに近くで便利!!」おなかがすいたら、お魚が近くでとれたらどんなに便利でうれしいでしょう。今夜の夕飯だってすぐそこでとれるのです。
 でも男の人がにっこりしながら、私に動作と言葉で伝えてくれたことに、私はとてもびっくりしました。その男の人は、あれは爆弾でできた穴だと言ったのです。上からなにかが落ちてきて、ばーんと破裂してなったと・・
 私ったら本当にいつも、なんてのんきなのでしょう。心臓がドキドキして、胸が苦しくなりました。本当にほんの少し前まで戦いがあったのです。すぐ家の前に爆弾が落ちたのが、ついこの間なのです。そういえば、すぐ近くの小学校の前にも同じような大きな池がありました。私は何も思わなかったけれど、あの池だって、きっと爆弾が落ちてきてできた池なのです。そのとき、こども達は学校にいたのだろうか? みんな無事だったんだろうか? どんなに怖かったことだろう…

 前に黒柳徹子さんが、言っていらっしゃったことを思い出しました。
「平和って25年しか続かないって言われているのよ。それがね、今は日本では何十年も続いている・・だから安心して、戦争はもう終わった、なくなったって思ってるけれど、世界の中では、明日も平和って限らないって思っている人はいっぱいいるのよね。日本の平和だって、自分たちが心でちゃんと平和が大切って考えていないと、また戦争っておきるかもしれない…」
 ソチアさんにバスの中で尋ねたことを思い出しました。「どうして、そんなにカンボジアはいっぱい戦争がおきたのでしょう。でも、もう戦争は起こらないですよね」
 ソチアさんは「そうだといいですねえ」って「そう願っています」と言いました。「カンボジアの人は、政治をしている人や力を持っている人をあまり好きでありません。なぜって、そういう人たちは、戦争が起きるとすぐに、国民に何もしらせず、自分たちだけ国の外へ逃げて、命が助かる。でも、僕たちは、苦しんで、戦いの中にいます」と言いました。ソチアさんは自分たちの力で戦争をおこさないでいようとは思えないのだと思います。ソチアさんたちの知らないところで、戦いはいつも起きる…もう平和になったかな。今度は大丈夫かなとそう思っても、また戦いは起きてきて、それが繰り返されてきた…だから、この平和も、ずっと続いてほしいと心から願っているけれど、でも、戦争はいつ起きるかわからないし、不安だと感じているのだと思いました。
 「またおいで」と何も買っていないのに、隣のおあばちゃんと男の人は手を振ってくれました。

 カンボジアのあと、私たちはベトナムへ行きました。
ホテルで、夜、ちょっとだけ外に出たときのことです。お花を売っていた男の子が、小さな花束を持ってそこにいました。私は彼がお花を売っていたときから、とても気になっていたのです。
 どうしようかなあ、話しかけようかな? 男の子をしばらく見ていると、目が合いました。それなのに、私、ぱっと目をそらしてしまったのです。どういう気持ちだったのか、はっきりわからなかったけれど、たぶん、どうやって彼に「お話したいの」と言うことを伝えたらいいかわからなかったからだと思います。でも、彼は私の方へやってきてくれました。そして、驚いたことに、彼は、私にお花を買ってということは言わないで、そばに座ってくれたのです。そして私をじっと見ています。まだ黙ってしまっている私に
「ジャパニーズ?」彼の方から私に話しかけてくれました。
私はどきどきして、「うん」と言葉にせずに、うなづくと、今度は
「こんばんは」と日本語であいさつをしてくれたのです。まるで私が彼と話したいと思っていることを、彼がわかってくれたみたい。そう思ったら、うれしくてうれしくて仕方がありませんでした。
 その少年は、日本語も英語も、少し知っていました。お客さんから教えてもらったと少年は言いました。(本当を言うと、日本語や英語や、ジェスチャーやいろいろお互いに混じっていたから、どうして、こんなふうに上手にお話し合えたのか、今になってみるとわからないのです。でも私は確かにわかったし、彼もわかってくれたと思うのです。いいえ、伝えようと思えば、言葉がなくても伝えられることはたくさんあると、私はこの旅で何度も思ったし、そして学校へ帰ってから、子どもたちと話していても、そう思うのです)。
 彼は英語も日本語も、観光客の人とお友達になって覚えたと言いました。
 私は不思議に思っていることがありました。どうして、アメリカの少年がここにいるんだろうと思ったのです。彼の目鼻立ち、そしてすらりとした背格好は、アメリカかそうでなければヨーロッパの男の子のように見えました。
 少年と話しているうちに、はっと気がついたのです。私は本当になんてうっかりものなんだろうと悲しくなってしまいます。
 彼はアメリカ人ではないのだ。
 そしてそのときに思ったことは、もしかしたら、彼の年を考えると、おじいちゃんにあたる人が、アメリカのたぶん兵隊さんだったのかもしれないとということでした。
 彼にあったそのとき、私は戦争のことをいろいろと聞いたり感じたりしてきたあとでした。戦争には、たくさんの虐待があり、それから、女性に対する乱暴もつきものだと本にも書かれてありました。私は本当におろかです、乱暴をするという意味をそのとき、漠然としかわかっていなかった・・・あとで五木さんの本などの中にレイプという言葉があって、今はそのことに気がついているけれど、でも、それまでは、私は女性や子どもたちは力が弱いから、だから叩かれたり、突き飛ばされたりしてしまったのだとそんなふうに思いこんでしまっていたのです。
 もし、目の前の少年が、ベトナムの女性とアメリカの男性の幸せな結婚が過去にあって、生まれたのであれば、私が今、書くことは本当にとてもとても失礼で、許されないことです。だから、書くことをとても迷いました。 
 そのとき、私の頭の中は、ベトナムには、敵国と言われていたアメリカの兵隊さんとのあいだに生まれた子供たちがたくさんいたのだろうかということに思い至っていました。そして、生まれた子供たちや、それから、お母さんは、大きくなっていく間に、きっとたくさんのつらい悲しい思いをされたのじゃないかと思ったのです。
 私たちは悲しいことだけど、いつも差別というものをしてしまいます。ただはっきりとした理由がなくても、「他の人と違う」というようなことで、差別をします。
 アメリカ人の血をひいた子どもさんは、ベトナムでは周りの人と違う容姿をしていて、それだけでなく、ベトナムにとっては、当時、アメリカは、枯葉剤をまいた憎い相手だったから、そのために、さらに、とても悲しい思いをしたのじゃないかなということは予測できました。
 目の前の男の子は、とてもきれいな目をしていました。
「お花の売り上げは一日に5ドルくらい・・・もっともっと売れることもあるよ」少年は誇らしげでした。ベトナムの友だちのニュンさんは盲学校の先生のお給料が、月に7千円くらいだと教えてくれました。もし、毎日、5ドルの売り上げがあったら、少年の売り上げはニュンさんの盲学校のお給料をはるかに超えます。
 でも、少年は学校へは行きたいけれど行っていないのだと教えてくれました。
「どうして行かないの?」
「ほら、あそこにいるのが妹だよ」妹は、まだ小さいのに花を売っているのだと教えてくれました。小さい妹でさえ働いているのだから僕はがんばらないといけない…ふたりで働いても生活は大変なんだと。
 「子どもたちの収入が多くなれば、なるほど、大人はなお働かなくなるから、子どもたちの収入が高くなると、子どもたちはいっそうつらくなるんですよ」とガイドの岩澤さんがカンボジアでおしえてくれたなあと思い出しました。彼のおうちはどうなのか、心配できいてみたかったけれど、私には聞けませんでした。
 お金は、お父さんやお母さんにあげるんだと男の子は言いました。
私はベトナムへ行く前にカンボジアに行ったよ、とか、今日アオザイをつくったんだよとか、それから、私はベトナムが好きとか、いろんなことを話しました。
 夜がふけていっても、ベトナムの街は元気でした。