あのすば・・・・ 第9回

人権は量ではかれるか?

田中優子(在日横浜人)

 「人権はバターだ」そうだ。先月、「このての発言は無くならない」と書いたばかりだが、このように絶え間なく出てくると、そのうちマヒしてしまって日常茶飯事に耳のそばを通り過ぎてゆくのではないか? そうならないようにしよう。もっと敏感に、言葉の背後の価値観を探るようになろうではないか。

 この伊吹文部科学大臣の発言は、バターは量を過ぎると内臓脂肪になるので「悪」に転換する、という意味だ。医食同源。食べ物も薬も量を過ぎると毒になるのは常識だが、それは量ではかれるものについての話である。人権は量を過ぎると「悪」に転換するのだろうか?そもそも人権は量ではかれるのだろうか?

 私はそこまで考えてぞっとした。言ったのは文部科学大臣である。この人権バター説は、人権についてどういう発想があれば出てくるものなのか、考えてみた。
 まず人権についての基本的知識が無いことである。あれば言えない。つまりこの人は、人権の概念を知らない。人権はふつう「侵害」とか「保護」が問題にされる。つまり誰かから与えられるものではなく、自分で自分の人権の配分や量を調節できるものでもなく、人間なら必ず誰でも平等に持っているものなのだ。いわば「命」と同じだ。であるから、それを侵すと「侵害」になり、侵害しないよう保護されねばならない性質のものである。

 世界最初の人権宣言は、1776年年6月12日に採択されたアメリカのバージニア権利章典であった、とものの本にある。このときの人権の意味は「万人が生まれながらにしてひとしく自由かつ独立しており、一定の生得の権利を有する」という意味だ。フランス革命の「人および市民の権利宣言」では、それに加えて、国家に関与する市民の権利が宣言された。その後さまざまな歴史をたどったにせよ。人権とはまずそういう意味である、とほとんどの人は知っている。日本の文部科学大臣を除いては。

 であるから、「人権が多すぎる」という表現がどういう意味なのか、理解できない。人権を尊重し「過ぎる」という意味であるなら、この世の中、決してそういうことは起きない。自由、独立、生命の安全、参政権を尊重し「過ぎている」という状況を想像できないからだ。人権は、基準に従って国家がこれを侵しているか侵してないか、を判断するものであって、尊重し過ぎているかどうか、を考える基準などどこにもない。意味がないからだ。どんな国にも問われているのは、人権侵害が起きていないか、である。地球上の万人が人権を侵害されない状況こそ人類にとっての究極の理想である。しかしかつて一度も、そういう瞬間はなかったのではないか。

 つまり伊吹さんは、人権と身勝手を区別できないのではないだろうか?自分の利益だけを考える考え方が横行すると、共同体は困ったことになる、というごくふつうのことを言いたかったに過ぎないのだが、「人権」を理解していないので、その言葉を使ってしまったのであろう。「人権」を使うのなら、「互いの人権を尊重しあうようにならないと社会は困ったことになる」と言えば日本語として正しい。

 私がぞっとしたのは、厚生労働や教育という、もっとも人権にかかわる部署の大臣が、教科書で習う程度の人権概念が身についていないことだ。さらに、「自由」と「民主主義」を名前にいただく党の人々が、それなしでは自由も民主も存在しない基本である「人権」について、勘違いをしていることだ。柳澤さんがそうであったように、伊吹さんの勘違いも、与党政治家全体に及んでいることだろう。そうでなければ、どこかで糺される機会があったはずだからだ。

 人権と身勝手を区別できない人や党は「自分の利益だけを考える身勝手」を国民に押しつけ、「人権だから尊重しろ」と言うであろう。あとひと月で都知事選である。あとふた月で「憲法改正の手続きを定める国民投票法案」が採決にかけられる。この二つの行方によっては、なだれを打ったように私たちは、彼ら蒙昧のやからによって、泥沼に引きずり込まれることになる。

 まずは2カ月を、心して生きようではないか。多くの政治家が、人権も自由も民主主義も人間存在も、何も知らずに何もかもどうでもよく、毎日を生きている。石原慎太郎を当選させることは、そういう人たちを何より元気づけるだろう。東京都民の税金は、五輪というエサに群がってくるゼネコンたちに食い尽くされ、ゼネコンの税収は戦争に使われるであろう。