あのすば・・・・ 第6回

「高貴な奥様」のために

田中優子(在日横浜人)

 『憲法九条を世界遺産に』(中沢新一・太田光著 集英社新書)の編集を最後に、集英社を退職した鈴木力と会った。この本は30万部を突破したそうで、幸せな定年退職である。余裕ある毎日かと思ったら、やたら忙しいという。いろいろな編集の仕事が舞い込んでくるそうだ。そのなかでボランティアでやっているのが「マガジン九条」サイトhttp://www.magazine9.jp/で、そのインタビューのために、わざわざ東京のはずれにある大学までいらしてくださった。

 そのとき、意外な話を聞いた。11月19日に日比谷公会堂でおこなわれた「教育基本法・共謀罪・憲法改悪・ちょっと待った!」という集会が原因で、『週間金曜日』編集室の入っているビルの前には、右翼の街宣車が押しかけている、という。その理由とは皇室への「不敬」だというのだから驚く。いや、面白い。

 この集会には私も出演した。社長の佐高信が次々とゲストを呼んで対談する、という集会だったからだ。寒い雨のなか、なんと約2000人が集まっていた。私は自分の出番が終わったあとも舞台袖で見物していたから、問題の「不敬」(と言われるジョーク)がどういうものだったかも目撃している。近所に暮らす上品な白髪のおばさまが舞台に現われ、最近生まれた孫を自慢して、客席に降りて参加者たちと会話する、という他愛のないものである。この間、このおばさまには何ら不快な言動はなく、いやな人だと思わせるものもなく、人柄の良い、おとなしい、ただのおばさまであった。何が不敬なのか?

 おばさまは美人だが、化粧は真っ白で眉が細くて薄い。着ていたのは、古いタイプの肩の張った白いイッセイプリーツで、なぜか頭には茶托をくくりつけていた。これがすべてである。何らかの意味を示す言動は一切なく、彼女が誰であるか思いめぐらし特定するのであれば、それは観客の「自由」である。頭に茶托をくくりつけている人、実際にいるの?

 不敬があるとすれば、それはなんらかの「不敬な想像」をした側ではないだろうか? パロディとはそういうもので、パロディストとは、あくまでも自由な想像に火をつける導火線である。押しかけた街宣車のかたがた(読んでいるわけないか)、この話題に火を付けた週間Sの編集者のかたがた、あなた自身の不敬な想像力に乾杯! パロディってほんとに面白い。ただし、自分の想像を他人の責任にするのは、今すぐやめるべきだ。

 ところで、不敬という言葉は死語である。なにしろ天皇は61年も前に人間宣言をした。身分制度は約140年前に撤廃されている。この2006年に「不敬」という観念を持ったりそういう発言をする人がいたら、それは妄想の病にかかっているとしか判断のしようがない。『金曜日』に行くより病院に行ったほうがいい。不敬ではなく「人権」という言葉こそ、我々がほんとうに問題にしなければならない言葉だ。自民党の皆さんが大好きな「ふつうの国」はみな、不敬ではなく人権を問題にする。

 ところで、彼らが「その人」と想像したその人に人権はあるのか? 真に問うべきなのはそこではないのか? 人権を認められていない高貴な奥様は、たとえ何を言われようと名誉毀損で裁判を起こすこともできない。今回、白髪のおばさまを演じた石倉直樹さんも主催者である『金曜日』も、おばさまの名誉を少しも傷つけていない。しかし過去には幾度となく、マスコミは名誉毀損を繰り返してきた。そして彼女にはどうすることもできない。その権利がないからである。

 今の日本は格差社会かも知れないが、少なくとも身分制社会ではない。しかしその非身分制社会の中で、唯一「身分」という言葉が実体をもつのが、この家族である。その家に生まれたり嫁したりしたら最後、そこから抜け出すことはできないからだ。彼らは選挙権、被選挙権、裁判権、言論の自由、労働の自由などいかなる権利も持ち得ず、義務だけを負って生きる。彼らは日本で唯一の被差別民(差と別をもって遇される身分の中にいる人々)である。名誉があると言っても、それは自らの能力や努力で得たものではないから、これほど空しいことはない。そんな人生を、我々はどうして他人に強いているのだろうか? その「犠牲」によって何を得ているのだろうか?

 「不敬」と言って怒る人々に言いたい。なぜあなたがたは、この国の中でそんなことを許しているのか? ほんとうに彼らが好きなのなら、天皇制という被差別身分制度の撤廃のために戦ったらどうなのか?