40回  11月3日、憲法公布の日に考える

田中優子(在日横浜人)

11月3日は文化の日である。たいていこのあたりに大学祭があり、その時期を使って、アルザス日本学研究所の学会に海外出張してしまう。そういうわけでこのところ毎年、日本にいなかった。3日が何の日であるか、ほとんど忘れていたのだ。しかし今年、私の出張先が中国の学会になり、その結果3日には「今、長崎で憲法を考える、抵抗の思想と群像−江戸・平和・長崎」という、佐高信さんとの対談を、長崎でおこなうことになった。ついでに言えば、ほぼ同時に5月3日にも憲法をテーマにした講演の予定が入った。

11月3日は、日本国憲法が1946年11月3日に公布されたことを記念して制定され、5月3日の憲法記念日は、その翌年の憲法施行を記念して制定された。どちらも憲法の記念日である。しかし11月の方はどうもそういう気がしない。おそらく、憲法の背後に天長節=明治節という明治天皇の誕生日が隠れているからである。まさにこの11月3日の二重性こそが、現行憲法の矛盾である。

私は常々、なぜ9条(第2章)の前に1〜8条まで(第1章)長々と天皇についての記述が続いているのか、不思議であり、違和感をもっていた。ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』を読んでいて、憲法9条は、1から8条までの天皇制残存と、深く関わっていることをようやく理解できた。やはりそうだったのだ。ダワーは、「占領軍は、天皇の責任の追及にむけた本格的な捜査をさせないようにしむけた。……天皇の責任について、アメリカ人が単に見て見ぬふりをしただけではなく、否定さえしたために、「戦争責任」という問題の全体が、ほとんど冗談になってしまった」と書いている。

マッカーサーの軍事秘書官で心理戦の責任者であったボナー・F・フェラーズが「軍部と天皇のあいだにくさびを打ち込むことが重要だ」と、マッカーサーに進言したという。軍部を戦犯にして切り捨て、軍備を廃棄させて天皇の責任を無いことにし、天皇制民主主義を作る、という意味である。私はこのくだりを読んで、あることを思い出した。江戸時代の初め、天皇をどうすべきか議論が起こった。江戸時代体制は極めて堅固な武家体制であり、全国統一はほぼ完璧であったから、天皇を必要としなくなっていたのである。家康の右腕であった天海が天皇と公家を「伊勢へ移らしめられ、大神宮の神主に為され候へば」、自然に将軍家は天皇同様の権力を保持できる、と言ったのだ。これは天皇制の廃止案であり、天皇を伊勢の神官にすることで、政治の舞台から古代のシャーマンへ戻す提案である。しかしそれに対して藤堂高虎は、「天朝を御羽翼遊ばせられ候而こそ諸大名も屈服し、万民も仰望仕候」と答えた。天皇と公家を持ち上げておいてこそ、この体制が維持できるのだ、という意味である。

「国民の大多数の心のなかに天皇の存在する余地はなかった」「もし占領当局が裕仁の退位を促す方針をとっていたなら、それを妨げるような障害は何も存在しなかった」というダワーの状況分析は、江戸時代にそのままあてはまる。江戸時代の人々の心の中に天皇は存在しなかったし、家康が天皇の退位と伊勢神宮への移籍を決めれば、それはそれで済んでいたのだ。しかし占領軍は、そうする(退位か、天皇制廃止か、はっきりしないが)ことによって、共産主義が台頭することを恐れていた。すでに冷戦時代に突入していたのだ。江戸時代の場合は、徳川家が全権力を掌握することに各藩(各大名家)が反発しており、権力の分散を望んだのであろう。どちらも政治的な判断である。江戸時代の場合、この二重権力構造が、後に明治の天皇制復活につながるのである。現代の場合、この天皇制民主主義は、どういう結果をもたらすのだろうか。

憲法はやはり9条を柱にして、その理念を実現するために、あと幾度も脱皮しなければならないのかも知れない。ひとつは、占領軍の提案が日本政府によって削除された、という「在留外国人法に基づいて外国人にも平等な保護を提供する」という条項の復活である。もうひとつは、the peopleが「人々」ではなく、巧みに「国民」と訳された事情を鑑みて、「人々」に戻すことである。そして最終的には、1〜8条までの廃止である。それにあと何十年かかるは知らない。