27回  カムイは、今もどこかに潜んでいる

田中優子(在日横浜人)

 十月初めに『カムイ伝講義』(小学館)を出版した。『カムイ伝』を講義に使ったその講義録、という意味である。
 白土三平の劇画『カムイ伝』は1964年に雑誌『ガロ』に連載され、1988年から『ビッグコミック』に連載された。前者を第一部と呼び、後者を第二部と呼んでいる。それらに平行して、活劇『カムイ外伝』が出ている。
 60年代に書かれた第一部も、80年代に書かれた第二部も、『カムイ外伝』に比べればカムイの姿があまり見られない。農民の正助や、武士の草加竜之進や、森の白狼の物語のように思える。とりわけ江戸時代の農村とその一揆の高まり、漁業の迫力、山林の仕事がもたらす環境破壊など、社会的な背景が見事に描かれているのだ。私が『カムイ伝』を法政大学社会学部の「比較文化論」の素材にしたのも、そういう理由からだった。

 しかし私は、外伝を含めた全集38巻を読み通してみて、あることに気付いた。ひとつは、『カムイ伝』のまなざしが一貫して、社会の最底辺の位置にある、ということだ。つまりカムイ自身が登場しない場面でも「カムイの視線」というものがあり、それはこれ以上下がりようのない、社会の最底辺に据えられているのである。その視線は、教科書が江戸時代を書くときの視線と対照的なので、私は、教科書が「上からの視線」で書かれていることに気付いた。
 もうひとつは、この視線が時代を超えてゆく、ということだ。読み通したとき、私は「カムイは今でも、どこかに潜んでいる」と感じた。それは、どのような時代であろうと、最底辺に据えられる視線というものがあり得る、ということである。カムイになってみる、カムイの目でこの社会を見てみる、「カムイの方法化」ということが、私たちにもできるかも知れない。

 『カムイ伝』の時代背景は江戸時代の初期で、カムイは穢多の集落に生まれた少年であった。農民の正助も土地を持たない下人の子であり、武士の草加竜之進も、権力の都合でいいようにされる極貧の下級武士の子である。つまり白土三平は、時代特有の社会や身分制度を批判することを超えて、どんな身分であろうと、どんな時代であろうと、その中に存在する身分内階級や格差構造を見据えているのである。
 私は講義を「『カムイ伝』における日本人の仕事」というテーマでおこなっている。格差があろうとなかろうと、基本は「働く」ということなのだ。人間は働いて生きて行く。大学にいると、学生たちがそう思っていないことに慄然とする。「現代は働かなくても生きて行かれるので」と、レポートに平然と書く。彼らにとって就職は、大学入試と大差ない。生涯働いて生きて行く、ということがぴんと来ていない。そこで「仕事」というテーマで話している。
 格差社会の中で働いて生きてゆくとはどういうことなのか、それを考えざるを得ないのが『カムイ伝』だ。『蟹工船』がこの時代に蘇ったように、『カムイ伝』も蘇るべき本である。
 三種のシリーズすべてが、小学館から全集として刊行されている。