22回  道路は食べられない

田中優子(在日横浜人)

半年ほど前、車を廃棄した。数日前、八十二歳になる母も、ようやくあきらめて車を廃棄した。一人一台持っていたのである。大学までは車なら10分で行かれるので、気持ちが焦っているときは速くて便利だった。しかし考えてみれば、歩いても30分である。雨が降れば傘をさせばいいし、何より歩くのは気持ちがいい。次第に車に乗るのがいやになった。母はたいへんな車好きだったが、運転したあと足が痛くなるようになって、とうとうやめた。事故を起こす前にやめてくれて、私もほっとした。出かける機会も少なくなった。タクシーに乗ってくれたほうが安全で経済的なのだ。おかげで今回のガソリン税問題も、ほとんど関係ない顔をしていられる。

平行して、静岡県の山の上にできるライフケアマンションを契約した。今年の冬には母も私も、生活の半分をそこに移す。大学に近い今の家は仕事場として、また残っている猫たちのために、しばらく使う。母は片付け物をはじめている。たくさん捨てねばならない。私も少しずつ生活や持ち物を縮少し、やがては静岡で暮らすつもりだ。私の家では父が空調機械の設計事務所を開き、私も個人研究室がなかったために家で執筆をしていた。二人分の仕事場スペースが必要だった。しかし父は亡くなり、私は郊外の校舎に個人研究室をもらった。母は少しずつ足が動かなくなり、広い家は管理が大変なだけとなった。

年をとれば家族は少なくなる。ものはたまるが、そのなかの一部しか実際には使えない。生活が変われば多くのものを諦め、捨て、身の丈にあった生活を営むのが合理的になる。多くを望まず、大事なものは何か、優先順位をつけねばならない。日本も、そういう時期にさしかかっているのではないだろうか。

日本では、人類が今まで経験したことのない、未曾有の速度で高齢化が進んでいる。働ける人が少なくなれば、税金を高くして貯えねばならないのは理解できる。しかし、なぜそれが自動車道路なのだろうか? 日本の人口ピークは過ぎつつある。あと40年ほどで一億を切る。2080年にはピーク時の半分になる。2100年には5000万人と推定されており、2150年には江戸時代の人口と同じぐらいになるかも知れない。人口とともに車の数は減り、流通も少なくなって行く。生活が縮んでゆくとき私たちに必要なのは、それに相応した生活ではないだろうか?

生活圏の縮小と自然圏(あるいは耕作圏)の拡大、という生き方が浮かんでくる。輸入するのではなく、自分たちのものは自分たちで作る。それに必要な技術力をもつ。フードマイレージを少なくする。長距離輸送は減る。むろんそのあいだに、外国人が流入してくるであろう。人口が減るのではなく、日本人の割合が減るという結果になるかも知れない。それにしてもなぜ、道路なのだろうか?

人口の少ない未来は、たとえ高齢者が多いとしても、人口が多くなる未来よりずっと希望がある、と私は思っている。収入が少なければそれに沿った生活の仕方があり、それをいちがいに「貧しい」と言ってしまうのは、想像力が貧しい。ところで、日本人の人口が減っているあいだに、世界人口はどんどん増える。食べ物が外からやって来なくなることは確実だ。そんな時になぜ道路なんだ?それどころではないのではないか?