21回  触るな危険!な、自主性と自発性

田中優子(在日横浜人)

映画『靖国』の上映は、自主規制をされたそうだ。自主規制とは、高度な管理体制のことである。江戸時代の出版社は同業者組合をもっていて、そこに「行事」という役を置き、それを版元がまわりもちで担当していた。行事を中心に、出版予定の版木を検討し、重版のチェックもしたが、ついでに内容のチェックもした。検閲は存在しない。自主規制である。

ところで、江戸時代の商業は基本的に無税である。個人の次元では税金を払っていない。しかし大手の同業者組合は幕府に上納金を支払っていた。これも「自主的に」払うものだったのだが、しかし自主的なのに、どういうわけかそれが「免除」される業務があった。質屋、古道具屋、古着屋、そして版元の同業者組合である。なぜ免除されたかというと、「自主的に」犯罪者の通報を期待されていたのである。というわけで、「自主性」は近現代の特許ではなく伝統である。自主規制も伝統である。そして上記の事例でもわかるように、自主規制は管理の一貫として巧みに作り出されてきた。

出たばかりの水野直樹著『創氏改名――日本の朝鮮支配の中で』(岩波新書)には、「自発性の強要」という面白い言葉が見える。創氏改名は法律ではなく強制もされていなかった。自発性にまかされていたのだ。しかしここでは自発性がいかに自発的でないかがはっきり見える。「強制ではありません」と言いながら、創氏しなければ子供たちが学校で不利益を被り、法を犯していないのに地域で危険視され、仕事に支障が出る。このようにして、人は強制ではなく脅迫によって、追い込まれて行ったのである。集団自決や従軍慰安婦問題で、「軍の強制」があったか無かったか、という論議になりがちなのは、こういう過程をたどるからだろう。「なかった」と言いたい人たちは書類上のことばかり問題にするが、実は書類より強烈に働くのは、作られた自主性である。

私たちはどうすれば、からめとられる自主性を排除して、自分自身の自主性を獲得できるだろう。子供のときから、「塾へ行きたいと言ったのはあんたでしょ」「あの学校に入りたいのは本人の希望で」という言葉で、親にからめとられている私たちは、「個人の自由」のからくりを見抜かなくてはならないのだ。本当は自分が不幸になる「自主性」や「個人の自由」が、そのへんに石ころのように、いや、あめ玉のように、ころがっている。

方法はとりあえず一つある。良く見る、良く聞く、観察し、情報交換し、知る、そして批判することだろう。脅迫者は誰か。その目的は何か。自分が主張できる権利は?その方法は? それを考えるためにも、表現や言論の封じ込めは命取りになる。逆に言えば、封じ込めこそ、脅迫者にとっての思うつぼだ。
『靖国』の上映館は次第に増えてきている。誰かが始めれば流れが変わる。


映画『靖国』より