あのすば・・・・ 第2回

「靖国は神社になってもらいたい」

田中優子(在日横浜人)

 今年の盆(旧盆)は沖縄の離島ですごしました。死者を迎え、ともに過ごし、送る。これが盆です。沖縄にはその、死者とともにすごす日々が残っています。
 沖縄のエイサーは賑やかで派手な踊りとして一年中おこなれていますが、じつは盆の踊りです。離島にゆくと「アンガマ」という踊りになります。石垣島では、鼓、笛、鉦、蛇皮線と地唄が付き、踊り手たちが花笠をかぶり白布で覆面して各家を廻ります。さらに翁と媼の仮面をかぶった二人が面白いかけ合いをします。踊り手たちが顔を隠すのは、つまり亡者だから。盆は死者たちに出会う日なのです。地唄人たちが唄うのは念仏唄。エイサーもアンガマも念仏踊りなのです。
 送りの日は船で小浜島に渡りました。送り火で死者たちを送り出した後、満月の下で一晩中途切れることなく踊ります。月が沈み夜が明けると男たちは女の着物に着替え、女帯を締め、顔に化粧をして紅をさし、念仏唄に合わせて最後の踊りを踊ります。
 盆は盂蘭盆会(うらぼんえ)の略語です。ウラボンは、「死者の魂」を意味するイラン語系のurvanだと言われています。中国に入って中元(罪を懺悔する道教の行事)や自恣(じし)(罪を懺悔する仏教の行事)と習合し、日本に入って魂祭と習合して定着し、江戸時代には沖縄に入りました。盆はアジア共有の魂の祭なのです。
 念仏踊りは歌舞伎の起源でもあります。傾き(かぶき)踊りの創始者である阿国は念仏踊りの名人でした。そして傾き踊りそのものが、死んだ傾き者、名古屋山三を舞台に呼び上げ祀る踊りでした。阿国自身が、男装して死者・名古屋山三になったのです。歌舞伎も浄瑠璃も、死者を弔うものでした。

 東京に帰って来ると、終戦記念日と靖国の話でもちきりでした。沖縄の終戦記念日は八月十五日ではなく六月二十三日です。沖縄にいると八月は死者を迎える盆月であって、戦争のことは話題に上りません。それに、もともと死者を迎え死者を送るのは家族とコミュニティであって、たとえ兵士として亡くなったとしても、国家ではありませんでした。
 私の伯父は靖国神社に合祀されています。母親である祖母も、妹である母も、伯父は靖国にはいない、と言っていますし、名簿から削除してほしいと思い続けています。もちろん、同意を求められたこともなく、同意したこともないわけです。1978年、A級戦犯を合祀したときも遺族の同意はなかったのです。A級戦犯の親族でさえ、「まつられていると考えていない」(8月6日「毎日新聞」)と言っていることに驚きます。
 私は靖国問題では二つだけ、強く要望していることがあります。ひとつは削除を求める遺族の願いを聞き入れることです。もうひとつは首相が首相であるあいだは参拝しないことです。前者は信教の自由に、後者は政教分離にかかわります。
 靖国神社の信者にも、信教の自由があります。麻生外相の非宗教法人化要求も、政府のA級戦犯分祀案も、信教の自由に反すると私は思っています。合祀を望む信者は、親族が戦犯であろうとなかろうと合祀を継続し、宗教法人としての神社を支える権利をもっています。国の干渉を退けるために、神社のほうから首相参拝を断った方がいいと私は思うのです。
 その上で、合祀を望む人々を「氏子」と位置づけ、合祀継続の経費を徴収し、神社本庁の組織の中に入ってちゃんと大学で教育を受けた人を宮司にし、日枝神社や神田明神のような、ふつうの神社になるべきではないでしょうか? 靖国は宮司教育を受けなくとも権威だけで宮司になれるところで、今は電通出身者の元華族が宮司になっているのです。伊勢神宮を頂点とする神社本庁組織の中にも、靖国は入っていません。つまり靖国は国家によって理念的に作られた神社もどきであって、土地と結びついた神社ではないのです。いわば「新興宗教」のたぐいです。特定の新興宗教に首相が参拝しているのです。
靖国は何もかも近代的な価値観で作られた近代主義の亡霊です。たとえば沖縄の人々を虐殺した日本兵も、靖国神社では英霊としてほめ称えています。「英霊」は戦争のために作り出された近代の概念です。日本語には存在しない言葉でした。
 「あのすば」派の私は、靖国という神社もどきに、全国の護国神社(靖国神社の子分)とともに消えていただくか、靖国(および全国の護国神社)を本来の神社にするか、二つに一つしかないと思っています。信者がいる以上、後者がもっともいい方法でしょう。戦争という名のテロをめざす新興宗教団体にならないよう、ぜひ靖国には鎮守の杜としての「神社」になってもらいましょう。

 
石垣島の御嶽の鳥居