あのすば・・・・ 第19回

的をはずさないために

田中優子(在日横浜人)

 批評やコメントというものは、何を言っても良いようなものだが、「的をはずさない」ことは、極めて難しい。「的」は「てき」と読んで「敵」と理解してもよい。
 私は以前から、なぜ『週間文春』その他の週刊誌が、美智子皇后や雅子妃の批判をするのか、不思議に思っていた。吊り広告で見ただけだが、正月に実家の両親と雑煮を食べることが、なぜ非難されるべきことだろうか? あまりにささいだ。そんなことを考えていたとき、突然『菊と刀』が蘇ってきた。
 この本は戦後すぐに書かれた日本論である。そこには、日本人は「絶対に」天皇を批判できない、と書かれている。「まさか。今はそうじゃない。なぜなら私たちは戦争直後の日本人とは違うから」と、読んだ時は思った。しかし美智子皇后や雅子妃に非難が集まる様子を見ていて、「これは本当かも知れない」と思うようになった。

 美智子皇后と雅子妃はふつうの日本人出身である。つまり私たちに近い。天皇を批判する勇気の無い記者たちが、それでも皇室に何か納得できない感情を持っているとき(あるいは国民のその感情に媚びようと思ったとき)、非難はどこにそらされるか? 我々と同じ階級から出た者たちではないだろうか。しかも非難することに抵抗感の少ない「女性」という階級にいる者たちだ。ここには「階級」感覚が生々しく生きている。
 日本の天皇制は、現代世界に残っている数少ない階級差別である。戸籍や人権、税金、選挙権など、ほとんどの社会的権利と義務を異にしているからだ。その意味で、政治家とはまったく違う。我々は果たして、天皇や皇太子そのものを批判することがきるだろうか? 本当は皇太子の求婚は詐欺に近いものだったのではないか、と疑ったとして、その責任を感じるべき人は、結婚を承諾した雅子妃だと思っていないだろうか? そうでなければ、同じ状況に置かれる限り直ることは不可能、と言われている病の人を、わざわざささいな理由で非難するだろうか?

 このコーナーで、「教育基本法・共謀罪・憲法改悪・ちょっと待った!」という『週間金曜日』の集会について書いたことがある。「高貴な奥様」問題で右翼が編集部に押しかけた事件である。私はあのとき、不敬とは思えないコントだった、と書いた。あれは間違いだった。「やっぱり不敬だった」と言うのではない。的外れだった、と思うのだ。なぜ物真似をするのが天皇ではなく、美智子皇后だったのか?やはり、「天皇をからかうこともできない日本人」だったに過ぎないのではないか。
 先日、町田市の男女平等フェスティバルで講演した。その時つくづく、「私が若いころと、何も変わっていない」と思った。未だに女子学生たちは働くことと母親になることのあいだで悩み、未だに男性たちは男のプライドにこだわる。未だに女性は非難しても安全な存在で、未だに私たちは問題の中心を刺すことができない。
 冷凍ギョーザ事件も、そうあってはならないだろう。変えるべき本質は自給率をここまで脳天気に減らしてきた日本のやりかたであって、安全管理をここまで急速に高めて来た中国では、絶対にない。
 がとにかく、天皇や皇太子を平気でからかい批判することのできる日本人に、まずはなろうではないか。それが、うつに閉じこめられたすべての日本人女性を解放する道ではないだろうか。