あのすば・・・・ 第18回

2008年の貧富

田中優子(在日横浜人)

あけましておめでとうございます!
昨年の正月は右翼の質の向上を願った新年のあいさつをしたが、その後右翼は消滅の一途をたどってはいても質が向上した気配はない。

しかし今年の正月はそれどころではない。格差と環境問題ががっちり手を組んで世界を襲ってきている。これを特集した年末の『サンデーモーニング』のなかであることを知った。それは竹中平蔵がかつて、「皆で貧しくなるか、それとも一部の人々が豊かになって他の人々を引き上げるか」という選択肢を挙げた、ということである。ここから構造改革が始まった。竹中はむろん、後者を主張するためにこの選択肢を作った。

しかしその後何が起こったか。一部の人々が急激に金を儲けたのである。そして他の人々を引き上げたか。いや、そんなこと、これっぽっちも思いつかなかった。金を儲けた人々は、さらに金を儲けただけだった。企業はこぞって非正規社員というものを雇い、豊かでない人々を引き上げるどころか踏み台にして生き延びようとしている。引き上げる効果をもった政策も仕組みも何ひとつ作らなかったところをみると、この選択肢は最初から、「みなで貧しくなるか、それとも貧しい人々を踏み台にして、一部の人々がさらに豊かになるか」という選択肢だったに違いない。こういうめくらましの政策を立てる学者を「御用学者」と言う。

アルフィ・コーンというアメリカの心理学者の仕事に『競争社会をこえて』(法政大学出版局)という著書がある。アメリカ社会に蔓延している競争神話に疑問を抱き続け、20年も前から警告を発し続けている。コーンをはじめとする学者たちは、競争による生産性より協力による生産性の方が高いことを立証してきた。競争は構造的なものであり、無意識にせよその構造のなかで生きることは「不幸な、緊張した状態」だと言い放つ。日本人をはじめとするアメリカ型社会の人々は、競争的な経済システムが自明な善だと信じ込み、問題は配分なのだ、ということに気づかない(ふりをする)。「国民総生産がいくらたかくても、財を手にいれることができるのはだれなのかについて」は問題にされない、と言う。

日本はこういうアメリカ型競争社会に、とっくに陥れられている。ほんとうはもうひとつの選択肢「みなで貧しくなる」方を選んだ方がよかったのではないか?竹中平蔵は、「金持ちを貧乏人にしても貧乏人が金持ちになるわけではない」と語っているが、本当だろうか?人を踏み台にしない――具体的には、給与水準を高くする、正規雇用を増やす、安い国外労働力を利用しない、フェアトレードになるよう努力する、富裕層から取った税金を最低生活保障に還元する、奢侈品の消費税を高くする、寄付金分の所得税を完全免除する――という方法を徹底すれば、金持ちは貧乏になって貧乏人は金持ちになるのではないだろうか?

いや、貧乏とか金持ちとか、こういう言葉はダメですね。自分を含め多くの人が贅沢でない質素な暮らしができるようにする――大事なのはそれだけなんですけどね。なんでそういうことを、政治は目標にしないんでしょ。