あのすば・・・・ 第11回

辺見効果

田中優子(在日横浜人)

 毎日新聞社が辺見庸コレクションを出し始めた。第一巻が『記憶と沈黙』である。私は以前にも辺見庸の本を書評したことがあり、今度も東京新聞にこの本のことを書いた。しかしいずれも短評である。何巻か出たときには、もっとしっかりした書評を書きたいと思っている。
 なぜ今、その「しっかりした書評」を書けないのか?と自分に問うた。両方の機会ともに、たまたま短評になってしまったのだが、辺見流に考えれば、それは偶然ではない。自分の「恥じ」や「怖じ気」がその方向に自分を向けたのである。辺見庸を読むことは、自分自身と向き合うことであり、そこに見える自分は猛烈に恥ずかしいのである。

 たとえば2003年12月9日、私は何をしていただろうか?自衛隊のイラク派兵が閣議決定され、小泉首相があの、憲法前文を引用した最悪の演説をした日である。もう4年も前になるのに、確かに私はあの演説を覚えている。しかしその年は学部を移った初めての年で、相当あたふたとしていた。手帳を確認すると、輪番制の授業がまわってきて、それをこなしてから会議に出ている。しかし私は授業の時にイラク特措法の話をしただろうか?きっとしていない。なぜなら今の大学の授業は、前の年に毎回の授業内容をすべて決め、それを新学期に「シラバス」というものに発表し、その発表内容と授業内容が大きく異なっていなかったかどうか、学期末に大学のアンケートで学生に質問するのである。突発的な「事件」について長く話す時間はない。約束を守らねばならない。――と、今の教育現場はそんな仕組みになっているし、私の言い訳もそれにつれて巧みになった。

 つまり辺見庸を読むとは、ふだんは考えないそんなことを考えてしまう、ということなのだ。辺見庸自身が常に、個としての自分と、国家や世界との不連続性を内省・凝視しながらものを書いているせいで、読む者もおのずとそうなる。辺見庸は石川淳が1938年に発表した『マルスの歌』を時々取りあげるのだが、私はその石川淳の影響で近世文学者になった。この石川淳もまた、戦時体制のもとで、自分と国家との居心地の悪い不連続性をみつめつつ小説を書いた人だった。そのとき、自分の立ち位置を江戸に求め、片足を江戸時代につっこんで持ちこたえた人であった。しかしそのぶん、批判性は薄れた。

 批評や批判にもっとも重要なのは、自分が日々何をしているか、の意識化だろうと思う。そうでなければ人間というものは、言っていることとやっていることを乖離させて平然としていられる。従軍慰安婦のことで「狭義の強制性はなかった」と言いながら、同時に、狭義の強制なく拉致した北朝鮮の事例を非難する安倍晋三がいい例である。いや政治家とは、自分はいつも正しい、という前提で生きる人々であろう。辺見庸の言葉で言えば、国家とは国内では死刑を、国外では戦争をするために存在する機能なので、なるほど威張ってなければ成り立たない。
 私はどうしてしまったのだろう? 安倍は従軍慰安婦問題をごまかして米国から帰国し、もうすぐ国民投票法案が成立するに違いないし、集団的自衛権まで議論されている。なぜこんな時にこんなにぬくぬくと仕事をしていられるのだろうか? 落ち着かなくなる。――辺見効果である。