第1回 オリンピック招致と極右都知事

安壇泰

 10月2日に、2016年夏季五輪開催都市が決まる。日本は2度目の挑戦である。(1940年に決定した東京大会は日中戦争のため返上)
 この時期になると思うのだが、一度開催した国が複数回開催しようとする姿勢には納得できない。私は東京やシカゴでの開催には反対である。世界には200以上の国があると言われている。
 個人的な記憶になるが、「兼高かおる世界の旅」と言うテレビ番組があった。30年近く続いたと思う。
 番組が始まった頃、世界には100位の国家があると言われていた。番組が終了した1990年頃「世界160余りのほとんど国を巡った」との最終回のコメントを記憶している。

 現在ではソビエト連邦の崩壊(1991年)でバルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニアの独立やウズベキスタン・タジキスタン等々が独立を果たした。ユーゴスラビアではボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア等の独立もあり国は増え続けている。その他にも多くの国が成立した。1999年にはインドネシアから、東ティモールが独立している。唯一例外的な減法はベルリンの壁崩壊によるドイツ統合である。
 近年における五輪は東西関係が、色濃く反映していたし商業主義や記録至上主義、開催場所や方法について様々な問題点が指摘されている。過去ギリシャ(2回)ドイツ(2回)イギリス(2回)アメリカ(3回)オーストラリア(2回)等、一部の国々に五輪開催が独占されている。2012年はイギリス(ロンドン)で開催される。
 1980年サマランチ氏がIOC会長に就任するや商業主義が徹底化されるようになった。 オリンピックマークの使用権、テレビ放映権など法外な価格で販売されている。そのため2次使用の放映権価格もべらぼうなため、中継されない国も多い。

 夏季五輪は過去30回の内、第一次大戦・二次大戦・日中戦争により三度に亘り中止されている。
 一度でも開催した国は開催できなくする国際的合意、ルールづくり、開催のあり方を再考する必要があると思う。仮に200の国が一度づつ開催しようとすると、800年の歳月が必要である。アマチュアリズムを標榜するオリンピック憲章には「選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と謳われている。しかし入賞式では国旗や国歌で選手を称美している。
 「参加することに意義がある」はずの精神から、当世の五輪は甚だ乖離している。ソウル五輪(1988年)決定の折は種々のロビー活動が巷間囁かれた。
 長野冬季五輪(1998年)決定を巡ってもIOC委員に対し利益供与、接待攻勢など露骨な買収工作が行われた。

 クーベルタンの唱えたオりンピズム「スポーツを通して文化・国籍・など様々な差異を超え、友情・連帯感・フェアプレーの精神をもって、理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」は風化し劣化の一途である。
 また南半球で開催されたのはオーストラリアだけである。更に南北問題も色濃く反映している。経済的、政治的条件や商業主義の蔓延で寡占化を余儀なくしている。
 地政学的条件も左右する。モルティブやバチカン市国、狭い境域や人口極少の国々、発展途上国では現在の選考基準を変えない限り不可能である。むしろ開催できない国が圧倒的である。
 いわゆる「先進国」が開催国を支援するとか、地域開催・共同開催など方法はある。智慧を絞れば、国威発揚や民族主義の鼓舞に直結している傾向が、少しばかりは矯正されるかもしれない。
 また東西冷戦を色濃く反映していたことも事実である。1980年モスクワ大会では「アフガン侵略」を理由にアメリカのカーター大統領の先導で西側の50ケ国がボイコットした。
 1984年ロスアンゼルスでは、アメリカの「グレナダ侵略」を根拠に東側諸国がボイコットした。東京・ソウル・北京の五輪でも嫌悪感を覚えるほど、国威発揚や民族主義が、いたる所で散見された。オリンピックには、是正しなければならないことが山積している。ましてや日本は冬季五輪を二回も開催している。
 
 2008年の北京開催時には、204の国や地域が参加した。余談ではあるが正確に世界の国を、カウントするのは容易ではない。なぜならそれぞれの、国際的な立ち位置や、政治的背景により「承認」方法が違うからだ。
 コソボやビルマ(ミャンマ)を承認していない国は多い。国連加盟国だけが基準になるのではない。
 例えば日本から見る朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)はどうなるのだろう。国連加盟国(193国)という観点からするとレッキとした国家である。 
 しかし日本は今も「北朝鮮」を唯一承認していない。しかし国連加盟国ではない中華民国(台湾)に対してはグレーゾーンである。国際関係において、国連中心主義を取る日本国からすると矛盾している。
 「北朝鮮」とは現に国交も存在しないし、在日朝鮮人には「韓国籍」しか認めていない。(朝鮮は記号扱い)あまり知られていないことだが、朝鮮総連系に属する人は、外国旅行や留学する場合大変な、不便を強いられる。
 日本国法務省発行の、再入国手帳をパスポート代わりだ。再入国手帳を持った人とベトナム、カンボジアを訪れたことがあるが、入国に際し一苦労する。すんなりと入国できないのだ。日韓会談妥結時の合意文書にも「北朝鮮」を国として認めていない。

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 本題に戻ろう。石原都知事が、またまた外国人嫌いの本性をさらけ出した。今度は「三国人」ではなくイギリス人である。石原は環境にやさしい五輪と宣う一方、多摩丘陵最大の里山(稲城市)で大規模(88ヘクタール・約東京ドーム20個)宅地造成事業を進めていたのである。世界各地で環境保護活動をしているイギリス人のポール コールマン氏が、このことを問題視し石原都知事に抗議文を送ったが黙殺した。
 そのことを記者会見で追求されるや、「東京をよく知らない外国人」「どうでもいいんだそんな者は」「ポール・コールマン? 知らないわ、外国人は」記者に対しては「住民なのか? それとも何人なんだ。君は一体、もういいよ」里山開発については、時たま報道されることはあったが、オリンピック招致に絡んだ排外主義発言が報道されたのは、私の知る限り日刊ゲンダイのコラムだけである。
 ネット上では記者会見が公開されており、海外では少なからず、話題になっているらしい。またポール・コールマン氏は、記者会見の動画や市民運動の批判の声をIOCや他の立候補国に送ったという。

 石原都知事の外国人差別発言には、辟易する。2006年8月オリンピック国内候補地選定の日、福岡市の応援演説をした姜尚中東京大学教授が「金持ちによる金持ちのためのオリンピック」「国威発揚のための五輪は否定すべき・・・」等の発言に対し、東京選定決定後のパーティーで、「怪しげな外国人が出てきて生意気だ、あいつは」と発言した。姜尚中氏の最近の言動や、オリンピック招致の応援演説自体に違和感を拭えないがここでは触れない。
 石原の在日朝鮮人、中国人に対する差別意識は根深く悪質である。1983年の総選挙に東京2区(品川・太田)から立候補するため新井将敬氏が、1982年2区内に多くのポスターを溢れさせた。そのポスターに「昭和41年北朝鮮から帰化」という日本人の心性に訴えるシールを、当時の石原の公設第一秘書(栗原俊記)が、変装してまで貼ったこともある。品川区に住む私はポスターに貼付されたシールを、今尚鮮明に記憶している。2000年4月の自衛隊記念式典においては「不法入国した三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している。やがて日本社会が変えられていく。大きな災害が起こった時には騒擾事件が想定される」と発言をしている。

 更に「9月3日陸海空軍を使って東京を防衛し、災害を救急する大演習をやっていただきたい」と、この日の「三国人」発言の前段で吠えた。1923年9月1日関東大震災の記憶をとどめようとの趣旨で制定されたのが「防災の日」である。2000年9月3日「ビッグレスキュー東京2000」と名づけられた軍事・治安出動訓練は参加総数が25000人を数え、銀座のど真ん中に装甲車を走らせた。
 形ばかりの9月1日の防災訓練とは別献立の、大仕掛けな災害訓練、治安対策と詐称した軍事訓練は自身の極右思想の具現化そのものである。醜悪で傍若無人な極右知事は治安対象として在日朝鮮人や中国人を強烈に意識していたと思う。また9月3日が日曜日であるため多数の大衆動員が図れると考えたからだろう。そして彼の考える「防災の日」に仕上げたのだ。

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 関東大震災の戒厳令下で、なぜ6000人の朝鮮人や中国人、社会主義者の虐殺が可能だったのだろうか。官憲の煽動や、黙許が無いかぎり想定し得ない。ほとんどの資料が焼却処分され、事件の記録として残されているのは亀戸事件、甘粕事件等数少ない。しかも警察署で公然と殺害が行われたのである。
 これらの「騒擾事件」「治安事件」に辣腕を揮ったのは、治安担当の責任者、正力松太郎(警視庁警務部長・後に読売新聞社長)である。石原の脳裏にあった災害時の騒擾、治安出動とはどのようなものであろうか。
 1923年関東大震災時10万人の死者・行方不明の大惨事を、現代においてどのように活かそうとして、禍禍しき「ビッグレスキュー」を構想を9月3日立ち上げたのか、容易に醜悪な底意を窺うことができる。「朝鮮人が毒を井戸に入れた」「放火している」「集団で襲ってくる」等の流言蜚語が飛びかったが、官憲は自警団を組織した群集の騒擾を抑えるどころか、煽り暴虐のかぎりを尽した。

 私は戒厳令下で起きた震災時の一連の「虐殺事件」を確信的に官製暴動だと思っている。
 2001年5月には中国人犯罪に対し「民族的DNAを表示するな犯罪が蔓延することで、やがて日本社会全体の資質が変えられていく」と発言している。常日頃「シナ人」と無頓着に呼称する極右政治家石原慎太郎。
 事あるごとに排外主義を煽る偏狭なレイシストを、この国で極右呼ばわりする人は少ない。メディアに至っては皆無である。オーストリアのハイダー(オーストリア未来同盟)や、フランスのルペン(国民戦線)を「極右」と紹介しながら自国の「極右」にはせいぜい「タカ派」である。
 韓国のハンギョレ新聞や、保守系の新聞、中央日報も石原には極右の冠をつけている。オーストラリア紙(オーストラリアン・フィナンシャル・レビュー)では「フランスのルペンのような人物」と紹介されたことがある。 
 ルペンの率いる国民戦線の主張は、せめて日本並の移民政策、国籍法を要求しているのである。朝日新聞パリ支局長が、国民戦線副党首にインタビューをしている。「日本が極右でないなら、我々も極右ではない」至極当然である。

 日本は1995年12月に「人種差別撤廃条約」を批准している。しかし4条「差別思想の流布への処罰)は留保している。東京都の保健師で在日韓国人鄭香均氏は国籍を理由に管理職選考試験の受験を拒否された。東京都を相手取った上告審で最高裁(2005年1月)は「都の判断は憲法に違反しない」との判決を下した。しかし今日に至るも条約を補完する関連法が見当たらない。救済措置がとられない。この国では「国籍条項」を欠落させた法案は容易に成立しない。例外はある。1981年「難民条約」の批准に従い国内法から、国籍条項が撤廃された。(これにより在日朝鮮人が年金の受給資格を得た)。「人種差別撤廃条約」はあらゆる人種差別の撤廃を定めている。

 現在韓国では「国家人権委員会」が設立され、すべての外国人の人権を保障する「居住外国人基本法」が制定されている。労働力として動員された中国東北部の「朝鮮族」や、アジア各国からの労働者に対する差別が法律制定の背景にある。外国人の地方参政権も確立した。
 日本においても、まず法律的、制度的差別から改革するべきだと思う。
 オーストラリアでは1970年代始めまで、白豪主義が採られていたが、ゴフ・ホイットラム労働党政権により閉鎖的な移民法から、開放的な移民政策に転換された。「人種差別禁止法」の確立で、すべての社会活動や教育、雇用、人種差別など、一切の差別が禁止された。制度的、法律的差別の撤廃は、確実に人々の意識まで変えていくのだ。また差別した者は有形無形、社会的制裁を受ける。
 石原の女性差別や障害者に対する差別発言は枚挙に暇がない。社会に差別することが「恥」だと言う意識が醸成されなければならない。結果として差別者を放置している日本の現状は、多くの人も共犯者と言える。
 石原にNOどころか300万票を与えた市民が今更嘆かわしい。日本で今必要なのは、「人種差別撤廃条約」に基づく「差別禁止法」の成立だと思う。私見だが在日外国人の「参政権」よりも優先されなければならないと思う。繰り返すが日本は「人種差別撤廃条約」を批准しているのである。国際的に遵守が義務付けられている。

 「差別禁止法」があるEU諸国であれば、石原氏は監獄行きである。アメリカ、カナダ、ニュージーランドでも、差別には社会全体が敏感である。社会的地位や名誉を失うこともある。しかもレイシストの烙印は終生付きまとうのである。
 ハイダー(2008年交通事故死)やルペンも「三国人」「シナ人」「DNA」に、類するような極端なことは言っていない。彼らはナチズムに繋がる極端な民族主義、反ユダヤ主義、歴史修正主義、排外主義、自国至上主義、更に排他的移民政策が故Ultlaconservative「極右」の称号を頂戴しているのである。
 私が日本的状況での「極右」の概念を規定するならば、上記を含め「ネット極右」の「2チャンネル主義者」や同調者も加える。この点でも石原は満点である。

 この極右政治家にとって在日朝鮮人や中国人の存在は目障りなのだろう。そのためなら手段、方法、人物に分け隔てなく攻撃してくる。
 かって、皇国史観に汚染された哀れな金完燮(きんわんそ)なる人物が著した「親日家のための弁明」を絶賛し、来日の時知事室の執務室に招きいれ鼓舞激励したこともある。
 また「三国人」発言に非難が集中した時の弁明が奮っている。「韓国人の友人は多い。最も尊敬するのは朴正煕大統領である」白々しい。どこまでも恣意的である。

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 石原の文壇デビューから今日の排外主義や処世術が如何に醸成、培養されてきたのか考えてみたい。彼の弟(石原裕次郎)から聞いた話を題材に書き上げたのが芥川賞受賞(1956年)につながった「太陽の季節」である。
 奔放で享楽的な若者の生態を描いた作品であるが次のような記述がある。「勃起した陰茎を障子に突き立てた」この一説が受賞に繋がる決定的な役割を果たした。
性風俗取締りに熱心な現在の、極右都知事からは想像し難いが、社会現象になったほど話題になり、彼のヘアスタイルは若者に支持された。
 小説が退廃的であるとか、倫理にもとるとの批判で、受賞後も論議を呼んだ。映画化された後は「太陽族」なる一部の若者を指す流行語も生まれた。
 中・高校生になり映画で何本か彼の作品を見たこともある。日活映画の中には、たびたび金子信雄ほか演ずるステレオタイプの「三国人」が登場した。そのたびに館内で、居心地の悪さを感じたものだ。大人になり石原裕次郎が出演した作品の多くで、兄の石原が脚本を書いていたことを知った。石原の「三国人」に対する造詣は深い。蛇足だが、あまりの適役?ぶりと名前から金子信雄が在日朝鮮人ではないかと思っていた。

 「狂った果実」もやはり、弟から聞き取った話が題材である。
 石原の作品数はそれなりに多いが、その後話題になったのは、1970年「スパルタ教育くたばれ親父」石原裕次郎が亡くなった後、出版(1996年)した「弟」である。偉大な弟である。弟なしには語れないのが石原である。彼の第34回芥川賞(1956年)の前後10人ほどを見ると、安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三、遠藤周作、近藤啓太郎、菊村到、開高健、大江健三郎(第39回・1958年)がいる。
 作家から政治家に転身したが、自民党衆議院時代「青嵐会」の一員であった。血判が捺印された設立趣意書には「いたずらに議論に堕することなく一命を賭して、右、実践する」とある。 
 いったい石原は衆議院議員として、あるいは都知事として如何なる実績を残したのだろう。若手芸術家支援事業の「トウキョーワンダーサイト」の実態は自身の4男延敬の支援事業であった。公私混同を指摘されると、「余人をもって代えがたい」と弁明した。

 知人、側近の支援事業でもあったが、2005年3月の百条委員会では、青嵐会時代の側近でもある浜渦副知事が問責されたが、後に再雇用し天下りさせている。石原の掲げた政策はほとんど頓挫している。
 福祉改革、横田基地返還、外形標準課税、カジノ構想、三宅島オートバイレース、築地市場移転計画、新銀行設立などである。都立霊園開発での森林伐採、築地市場移転先の豊洲は有毒ガスや、基準を超える発癌物質が発生する場所であるにもかかわらず、強行しようとしている。そんな石原がエコ五輪を謳っている。辛辣なまでに民主党を批判しておきながら、開催が困難と見るや鳩山首相に『ぜひ、ぜひ、ぜひ」とコペンハーゲン行きを哀願している。無節操も甚だしい。確かにディーゼル排ガス規制は石原による数少ない成果といえるかも知れない。(東京以外にディーゼル車の登録場所を移せば走行できた)。環境庁長官時代どのような感覚で采配を振るっていたのだろうか。

 石原は都知事を退任するとき、コメントするだろう、「やり残したことは多いが数多の成果をあげた」と。東京マラソン開催、不法滞在者の取り締まり、新宿などの性風俗取締り。参院宿舎建て替え反対表明。1999年知事就任以来3選を果たしながら、名だたる成果を挙げていない。
 物議を醸した発言の数々や、週2・3日の登庁、官官接待、現金授受疑惑、豪華海外視察(エクアドル・ガラパゴス出張では都知事だけで450万円)都文化施設予算の大幅削減等、悪代官ぶりは凄まじい。悪しき権力者は巨大な造形物を欲しがる。石原にとってそれがオリンピックなのだろう。
 特異な性描写で世に登場してきた石原であるが、大向こうを張ったつもりの言動の数々は、「陰茎で障子に空けた穴」ほどの視野と価値しかない。自己の対極には他者がいるのだ。差別者であり続けた人間にはわからないだろう。差別された被害者の多くは人格破壊を強要され埋没していく。

 アイデンティティーの韓国訳は正体性である、名訳だ。在日朝鮮人が毎年1万人以上帰化する状況が続いている。日本社会が開かれたためでも、あるべき共生が進んだわけでもない。差別から逃れるためだ。なぜなら「帰化者」の大部分が、出自を隠蔽しひっそりと生きているのが何よりの証左だ。
 浅薄な人生体験と矮小な空間に篭城し、威嚇しつづける「極右」石原のような人間がいるかぎり、在日朝鮮人・中国人に安息はない。
 自らを偽り、後ろ向きに日本人の隊列に加わることが、果たして人間としての「正体性」といえるのか疑問である。しかし帰化した彼ら・彼女らを咎める気にはなれない。差別の加害者は、紛れもなく日本人であるからだ。外国人を差別する社会が、日本人にとって住みやすい社会だろうか。
 極右が台頭した時代を日本人は記憶しているはずである。それがどのような時代であったか。決して極右に居場所を与えてはならない。

 鳩山首相が五輪招致で現地に向かうそうである。10月2日、2016年夏季五輪開催都市が決まる。