第90回 夏に思うこと
わんこは7歳からシニアといわれる。
60歳前にして迎えたワンコも早いもので来春6歳。椅子の脚カバーをとったり、おやつの棚を前足でカリカリトントンするわんぱくワンコも老いていく。
一緒に生きていっしょに老いてなるべく同じ時期に最期を迎えたい。そう思うのは飼い主だけだろうか。
それにしても、一匹のちっこいワンコが、ただ、そこにいてほしい愛おしい存在になるなんて、夢にも思わなかった。
けどさあ・・・トイレに行くとついてくる。服を脱ぐと先に風呂椅子に座る。歯磨きをして寝室に行こうとするとベッドに飛び込むんだワン。
私一人だと食べて出して寝るだけの行為に、ワンコが意味合いを付けてくれる。笑いを添えてくれる。モノクロの人生が彩り豊かな日々になっていくわけよ。
人とも関わって暮らしているんだけど、お人とは相性もあるのかなー。よろしくないんだけど、イラっとする時もある。
今の社会で、私は体が動かない。ゆえに生産性に欠け非効率な存在とされる。しかし、他人に対して「合理性」「効率的」な介護を求める。制約された短い時間でヘルパーさんにいかに動いていただくか、頭の中はいつも企てている。矛盾しているんだけど、「動けない身ゆえ堪忍ね」夜の定番ヘルパーさんに告げると「悪の千夏やねー千夏さんはお腹がすくとイラつきはる」ってけらけら笑う。
「言葉足らずの千夏をよろしくぅ。どなたさんもご足労様ですぅ」訪問者が来ると、必ず全力疾走で駆け寄り、私に代わりワンコがご挨拶。
「言葉なきものは凄い!中途半端に発語する私はたちが悪い?」まざまざと思う瞬間である。
人間は言葉以外で意思疎通を図れないのか。ならば、それは逆に人間が、とてもとても言葉に囚われているということになる。
私は、夏になると、10年前に起きた相模原事件を思い出す。夫の命日の翌日7月26日、施設で障害者19人が元職員によって殺害された。事件の残虐な光景は想像だにできない。けれど、もし私があの場所にいたら、私は確実に殺されていたことは想像がつく。
「お前は話せるのか?」すごまれたとて、とっさに声が出ない。感じたこともない恐怖心で失禁や失笑してしまうかもしれない。笑いは何も楽しい時に出るとは限らないのだ。
「意思表示できない障害者は生きている価値がない」と犯人は主張する。が、この意思表示とは、相手が望み、相手が正解とする言葉を、返せるかどうかではないのか?
なんびとも、それぞれの意志があり、それぞれの言葉がある。それを理解できる人と理解できない人がいる。
生きていれば、場所と時間で天災にもあう。人災にもあう。それは皆同じだとあなたは思うかもしれない。私もそれはわかってる。
が、障害者ゆえに選ばらずおえなかった、身の安全は担保される?施設で命を奪われた19人。その続くはずの人生や言葉にできない意思を私はおもいばかる。
生きて死ぬ!
そこには、「障害があるから殺されてもいい道理などTミリたりとも持ち込んではならない」
この夏も思う。