《天皇と憲法》

伊豆半島人=中山千夏

 

「おんな組周辺の発言はあまり見えませんでしたが、なにかわけがあるの? みんなどういう考えなの?」
女性天皇導入案をめぐる議論について、こんな質問をされた。そういえばそうだ。女性が主題の議論に、なぜ、口を閉ざしているのか、といぶかられるのももっともだ。別に閉ざしているわけではないのだが・・・よし、では私が言っておこう。天皇家に男子誕生の兆しが見えるやいなや、改正案は引っ込められ、議論も急速に消えたが、かえって言うのにいい時期かもしれない。
と思い立っての、この一文。以下に意見を述べますが、別に元祖世話人の総意でもなんでもありません。おんな組の単位はいつも個人、これも私個人の見解です。ご了承を。
なお、私は知見が狭いので、あたかも誰も言わないから言う、みたいな口調でつい喋ってしまうけれど、これから述べる意見などは、たぶんすでにどなたかが古今東西で発表しておられるだろう。それでも、多く目にする意見ではないので、重ねて言う価値もあろうかと、申し出る次第です。

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●まず議論を望見しての感想

いわゆる女性天皇の是非を巡る議論は、男女平等という人権にかかわる議論と、歴史的伝統的な風習にかかわるものとが、主だったようだ。特に後者では、古代史学者までが発言して、議論を盛り上げたらしい。
その評価、批判は、しない。なぜならば、議論全体が間違った土台の上におこなわれた、その失態の前には、議論の中味の正誤などは、雲散霧消してしまう。そう考えるからだ。また、議論を詳細には追っておらず、評価、批判はできなくもある。
ところで、議論の土台が間違っている、と言うと、即座にこう受け取られるかもしれない。
「そもそも千夏は天皇制に反対だ。一方、この間の議論は、天皇制の存在を前提としておこなわれざるをえない。だから、土台が間違っている、と言うのだろう」
これは半分、当たっているが、まったく正確さを欠いている。私自身を含めて、こんなふうに粗雑な批判的態度を示し続けてきたことが、この間の議論のような間違いを養成した。今後のために、ここははっきりさせないといけないし、心ある学識者たちにも、この点をしっかり認識したうえで、天皇を巡る議論にはかかわっていただきたい、とせつに思う。

●当たり前だが今、天皇制はない

土台の間違いは、こんなカタチで明らかになった。
女性天皇是か非かを論じるのに、有識者たちが、古代天皇制の事例を持ち出して、かんかんがくがく、やったのだ。
これは大きな間違いだった。
なぜならば、現代日本の天皇を擁する制度は、古代天皇制とは似ても似つかないものだからだ。
古代天皇制(記紀が記録した天皇制)と近代天皇制(明治に始まり第二次世界大戦集結まで続いた天皇制)とは、主権を天皇が持つ政体で、だから天皇制と呼ばれる。一方、現代の天皇は、天皇に主権の無い、国民主権の議会制民主主義国家の一制度である。
通称を「象徴天皇制」という。これは、古代・近代の天皇制とは、まったく異なる成立過程と、まったく異なる法律的概念とで成り立っている。ごく大まかに違いをまとめると。

(1)成立過程の違い  
古代・近代の天皇制は、直接間接の武力闘争の結果として天皇自らが主権を獲得し、成立した。
現代の制度は、敗戦によって、対戦国から元首としての戦争責任を問われることで危機に陥った天皇の生命と、天皇制廃止後の天皇の地位を守るために成立した。

(2)法律的概念の違い 
古代・近代の天皇制では、天皇は一種の神として国の主権を持つ者であり、国民はすべて天皇の臣民だった。
現代では、国体は議会制民主主義国家であり、その主権者は国民であり、天皇は、その国民の総意に基づいてその地位にある。それが憲法の明記するところだ。

以上のように、古代・近代の天皇制と現代の制度とは、似て非なるものであって、古代・近代のそれを天皇制とするならば、現代の制度はいかなる意味でも天皇制ではありえない。
にもかかわらず、現代の天皇の世襲方式を論ずる時に、古代天皇制を持ち出すことは、著しく不適切であるばかりか、その両者の差異を、またもや曖昧にしてしまう、大きな間違いだった。

●現代は「象徴天皇・制」だ

古代・近代の天皇制と、現代の制度とを我々がつい混同してしまう原因のひとつは、その名称だ。
象徴天皇制という名称は、現代の制度も、「象徴・天皇制」という天皇制の一種であるかのような印象を与える。
正しくは、これは「象徴としての天皇を擁する制度」、「象徴天皇の制度」、つまり「象徴天皇・制」である。
間違った土台に乗らないように、現代の制度を考える時には、頭の中で「象徴天皇・制」と区分けすることを、強くお勧めする。
混同を助長した二番目の原因は、天皇制支持者たちの態度だ。彼らは、あたかも天皇制がまだ存続しているかのような態度をとり続けた。天皇に対して、象徴に対する尊重や敬愛で対するのではなく、天皇制における臣民のように振る舞うことを、国民に強要した。その強要は、国家権力と右翼暴力団とが合体した強力なもので、世の中に天皇制が存在するかのような誤解を広く蔓延させた。
対する民主主義陣営も、そうした天皇制支持勢力への対応に手一杯で、古代・近代天皇制と現代の制度との違いや、現代に天皇制は存在しない事実を、きちんと認識し、ひとびとに知らせることをしてこなかった。少なくとも私はそうだった。おおいに反省している。私を含む多くが、天皇は民主主義国家には不適切な存在だ、という観点(それ自体は正しいのだが)にとどまり、現代の天皇について分別すべき大切な問題をネグレクトしてきた。とりわけ、象徴の主体はなんなのか、を国民的議論にできないできたことが、悔やまれる。

●象徴は天皇であって天皇制ではない

日本は第二次世界大戦の敗戦を機に、民主化された。その当然の結果として、非民主そのものの制度であった天皇制は廃されて、日本は議会制民主主義国家となった。憲法全体がそう宣言しているし、第1条にもその点は明確だ。

<天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。>

成立事情から見ても憲法の文言から見ても、象徴の主体は天皇制ではありえない。主権を国民が持つ民主主義国家の象徴が、非民主の天皇制である、などとは自己矛盾もはなはだしいからだ。
したがって、民主主義国家を是とするならば、象徴はひとり、天皇たる地位、と解する以外にない。それが国民の総意に基づくといえるかどうか、ある地位の人間を象徴とするのがいいかどうか、はまた別の話だ。それはそれとして、戦前から現代まで、天皇好きの一般庶民が少なくない現実からしても、ひとり天皇のみを象徴とするのなら、民主主義国家の制度として、かろうじて矛盾は薄れる。そして憲法はまさにそう規定している。
今、大切なのは、天皇について議論するすべてのひとが、その事実を確認することだと思う。憲法第1条が規定する日本国と国民との象徴は、天皇であって、天皇制ではない、と。そして、天皇制は非民主そのものであるが、民主主義国家の一制度たる象徴天皇・制は民主的に運営されるべきだ、と。

●矛盾はぬぐいがたいが

もちろん、天皇は天皇制と分かちがたく結びついているので、天皇ひとりを象徴の主体として扱うことも、制度を民主的に運営することも、すこぶる難しい。
早い話が、憲法は第2条で皇位の世襲を定めている。言うまでもなく世襲は、ひとの身分を生まれながらに固定しようとする反民主的なもので、その強要は基本的人権に反する。(蛇足ながら、民主的であるということは基本的人権を実現している、ということだ)。
運用細則の名を「皇室典範」のままにしていること、代理を「摂政」と呼んでいることも、現代の制度には不適切だ。
しかしこれらは、憲法が非民主を容認している証拠では、さらさらない。成立事情を反映して、民主主義の憲法自体が、反民主的な条項を持たざるをえなかったのだ。
確かに難しいことではある。それでも、新憲法による民主化を尊重し実現しようとするなら、可能な限り民主的に運営するほかなかった。そうできなくはなかった。

●反体制運動の責任

ありもしない天皇制の幻をつくりあげた責任の一端は、反体制運動にもあった。自身を含めて、私はそう反省している。
象徴天皇・制に反対する場面で、私たちは「天皇制反対」と叫んだ。象徴天皇に対して、あたかも天皇に対する臣民のようにふるまうよう強要する事例を見ると、私たちは「天皇制は生きている!」などと言い、今にも「天皇制が復活する」と警鐘を鳴らした。
こうした運動が一般のひとびとから敬遠されたのは、今思えば当然だった。民主主義国家で生きている楽観的な民衆は、正しくも、今や天皇制は存在しない、と感じていたに違いないからだ。どう転んでも、今後、天皇制が復活するなんて、信じられないからだ(この感覚も正しいと思う)。
そんな彼らには、私たちの主張は、あほらしい、あるいは悪辣なデマに見えたに違いない。
昭和天皇の戦争責任を追求するのとは、きちんと分別して、天皇制ではなく象徴天皇・制の非民主的現状を批判する必要があった、と今、痛感する。
なぜならば、憲法にある以上、象徴天皇・制は遵法だ。そんなこと知るか、という態度をとっていいのは、革命家だけである。私は政治的には革命家ではない。それなら、考えなければならない。私は象徴天皇・制に不満がある。ならばその不満を、どう解消しようとするのか。改憲によってか、それとも運用によってか。

●象徴天皇・制を民主的に運営せよ

こう考えてきて、私はようやく、まったき憲法擁護の姿勢を持つことができた。これまでは、テキ側から「おまえたちは第9条は守れと言いながら、天皇条項は削除したいのだろう。それなら、同じ改憲論者ではないか」と指摘された時、立ち往生する危うさを抱えていたのだ。
だが今、私は、天皇条項の削除を求めない。天皇条項は紛れもなく、民主主義憲法、人権憲法の醜い傷だ。しかし、憲法全体にこめられた平和と民主への熱い願いに免じて、と言うよりも、成立の経緯からやむなくついたものとして承認し、短兵急な削除を求めることなく、いわば自然治癒を目指す。
私は、第9条を曲解して軍備を持ち海外派兵する違憲性に憤るのと同じレベルで、天皇条項を曲解して、あたかも天皇制そのものが象徴ででもあるかのような運営をすることの違憲性に、憤る。「天皇制の復活」ではなく、天皇制そのものが象徴になっていくことの、民主主義国家としての矛盾と危機を、指摘する。民主主義国家の一制度である以上、象徴天皇・制は可能な限り民主的に運営せよ、と主張する。
これなら、天皇を好きな民衆とも、隊列を組めるのではないか。天皇は好きでも、大多数民衆は我々同様、天皇制への復帰など求めない、まっぴらだと思う、それは火をみるより明らかなのだから。

●自然治癒の希望

象徴天皇・制の民主的な運営を求めて、私はこう主張する。皇族の数を増やすなどもってのほか、皇族を天皇なみの扱いから解放し、通常の国民としての権利と義務を与えよ。世襲を定めた憲法の真意(天皇という地位の政治的利用を防ぐ)を汲んで、後継者は直系に限れ。資格はそれのみ、性別を問うがごとき性差別はするな。世襲の強制をやめて、当人の意志を必須の条件とせよ。
そして、当人の意志も含めて、後継者が絶えた時には、無理な存続を考えず、象徴天皇・制を廃止せよ。象徴天皇・制の成立事情と、そのために制度がよぎなく抱えた、非民主的、反基本的人権の性格を直視するならば、それこそが憲法成立時に暗に予定された、民主主義国家の正しい選択だ。
当然ながらその際、憲法から天皇条項は削除する。
その時ようやく、天皇たる人間は基本的人権を獲得し、私たちは民主主義国家のそれとして矛盾のない憲法を獲得するのだ。