第340回 ソクラテスを真似て

中山千夏(在日伊豆半島人)

サコどの!
前回のご意見には「考え中枢」をいたく刺激されました! その一端を書いてみたい。
ところで、ソクラテス哲学の方法は対話だったそうですね、聞きかじりですが。
それを真似て、というほどのことはないけれど、私を刺激したサコちゃんの意見を引用するにあたって、サコチナ対談風にやってみました。独断進行、どうかご容赦を! 題して、

〈役に立つこと〉

サコ「役に立ちたい」という思いは、知りたい・調べたいと同様に、人間だれもがもっている素朴な衝動だろうと思います。

チナ:あれれ、そうかなあ? 少なくとも私にはそんな衝動は、正直言って皆無です。だから「役に立ちたい」思いは「人間誰もがもっている素朴な衝動」ではないのでは? 
思うにここは人間を「個人」で見るか、「社会人」で見るか、で違ってくるのではないかしら。人間はまず個人として誕生し、存在し、社会と出会って社会性を身につけ、社会人としての側面を持つようになる。私はそう考えています。(これは最近、ヒューマン・ライツを巡る考察の中ではっきりしてきた考えなんですけどね)。
そして赤ん坊を見れば明らかなように、個人は唯我独尊です。他人や社会など眼中にない。社会人になっても、そんな個人が人間の核にある。ないとたいへん。人間ではなくなって、社会的動物の一種になってしまうから。
いっぽう「役に立ちたい」という思いは、他人や社会との関係なくして生じるものではないですよね。したがってその思いは、生まれながらの「人間だれもが持っている素朴な衝動」ではない、ことになります。ただ、社会人としての人間が持ちうる、高度な衝動、ではあるかもしれません。だからそれ、「役に立ちたい」思いは、社会的衝動、とでも呼ぶのが適当ではないかしら。
それがあるとしたらサコどのは社会人としての側面が大きいのかも。どう探っても私にはないので、ガキのままなのかも。いや、社会人としてはひとを「楽しませたい、喜ばせたい」という思いは大いにあります。思えばこれも、そうしているほうが、ひとを怒らせたり悲しませたりするよりも世間を渡りやすいから、とか、ひとを楽しませられる自分の力に満足する、とかいった非常にセルフィッシュな衝動と無縁ではないようです。
いっぽう「知りたい」は個人の領域に生じうる思い、「素朴な衝動」と言っていい思いではないかしら。そう私は考えるのですが。

それが、ある時期からおかしくなったのは、「役立つ」ことなら、それで金儲けしようとする企業から研究費がもらえるからだと思います。

チナ:ううむ、〈「役立つ」ことなら、それで金儲けしようとする企業〉があるとは思えないなあ。企業とはカネ儲けを主たる目的とする組織でしょう。なんにせよ、企業がカネを出す、つまり投資する、その目的は物質的利益を上げることであって、そうでなければ資本家や株主たちも納得しないでしょう。
だから企業が研究費を出すことと、「役立つ」こととの関係は、「儲けるのに役立つなら投資しよう」に限られるのでは? 福祉や文化に投資するのも、それが企業のイメージアップになる、ひいては利益にプラスする、という見込みあってのことでしょう。企業とは、カネ儲けのための組織だから、それが当然だと思います。
サコ役に立つことがわかっている研究には、企業がお金をだす。
チナ:前言の繰り返しになりますが、企業が投資するのは、役立つことが明らかな研究ではあっても、正確には「儲かることに役立つとわかっている研究」ではないかな?

サコだからこそ国は、すぐには役に立たないけれど大切な基礎的研究、あるいは何に役立つかわからないけれど新たな可能性がみつかるかもしれない挑戦的な研究など、果実をつける枝を支える幹や根に栄養つけるような投資をするべきなのです。そういう研究が「社会に役立つ」のだと、国が評価してこそ、国民の理解に繋がるのです。

チナ:これはちょっと……国家が国民の正しい理解を先導する図式を思わせて、抵抗あるなあ。私が国家に許容するシゴトは、(全員は不可能なので)大多数国民のイノチと暮らしを守ること、すなわち福祉だけなので。
サコしかし、いまの日本政府は、企業と同じ皮算用。
チナ:そのとおり! なんでも経済で考える教育を受けた為政者たちが、国家を企業として考えるからだと思うよ。となると国家として儲かることは善。同じ国民でも、税金をたくさん払うひとたちが大株主。商売仇である他国と競争して利益を上げて、大株主を中心に還元する、それが正しい国家経営だと、マジメに考えているんじゃないかしらん。
サコ理系でも、「役立つ」研究、金の儲かる研究にしか研究費をださないし、金儲けにならない文科系の学問に税金を使うことには国民の理解が得られないと首相が明言し、文科系の学問・学部は瀕死状態です。
チナ:うんうん、そうだってね。「役立つ」の意味がカネ儲けの役に立つことになっちゃってるのね。理系でも純粋数学に投資する組織はない、ということでしょ。

あ、少々話はそれるけど、一般に科学を理系文系と分けるけれども、それ、ちょっと違うんじゃないかな。分けるなら「純粋系と一般系」とか? 
科学の真髄は純粋数学と哲学だと思う。片や数字、片や言葉だけれど、どちらも社会的にはほとんど無用な「ものの考え方」というものを、知りたい衝動にかられて研究するものでしょ。哲学の場合はそういう本質がよく見えるのね。
ところで、個人にとっては家庭もひとつの社会でしょ。家族は身近な社会人。そこで妻という社会人から見ると、もっぱら個人の思索に拘泥していた夫ソクラテスは、社会の役に立たないただのグウタラだった、というのは実に納得できる話です。うふふふ。

サコ遺跡保護だって、「役に立っている」と私達は思っていますよ。ただその「役立つ」は、お金儲けや生活の利便性のためではなく、地域住民の心の豊かさのためであり、まだ生まれていないわれわれの子孫の人生を豊かにするためです。

チナ:いいなあ、カッコイイ! あのね、悲しいかな、芸(芸能、芸術)ってのはさ、そんなふうに堂々と社会に役立つと言えないのよ。正直言って、芸は社会に直接役立つことはまずないです。社会ではなく個人の精神の糧として、個人の精神を豊かにし、ひいては社会を文化的に豊かにする、と言えるだけ。まわりくどいこと、遺跡保護の比ではない。だから芸人にはスポンサーがなかなか見つからないの。企業も国も「社会に役立つ」芸もしくは「儲かる」芸にしか投資しないからね。生活苦しい、なんて言おうもんなら、ならやめれば、マトモに働けば、と言われちゃうしね。実際、そのとおりだし。

サコ「社会に役立つ」から公金で研究を支援する、という考えそのものは、国家としては間違ってはいない。公金は、国民の税金ですからね。しかし、重要なことは、何をもって「役立つ」とみなすのか、です。

チナ:それそれ!「役に立つ」ことは危険だ、と私が思うのも、「なんの役に立つ」か、が見過ごされる恐れがあるから。「社会の役に立つ」と言えば、なんでも一見いいことみたいだけど、サコちゃんが言うとおり、「なにをもって社会に役立つとみなすのか」で結果は大きく違ってくる。
たとえば軍備は社会に役立つ、とある種の国家主義者ならマジメに考えるでしょう。すると兵器開発に役立つ研究や勝てる戦争を考える軍事研究に国家が投資するのは、よいことだと彼は判断するでしょう。その立場からなら、軍事研究や軍備に国が投資するのは、社会の役にたつ善政だということになる。
だから、私が軍事研究を含む軍備に国が投資するのに反対するのは、それが「社会の役に立たない」からではなく、戦争はわれわれ人民のイノチと暮らしを、自然を破壊するから、その準備にわれわれ人民の血税を使ってはいけない、ということなの。原発も同じ。現にそう言うひとたちがいるように、少々難はあっても「社会に役立つ」という判断で続いているわけでしょ。その「役立つ」は主として経済界を潤すこと、そして原爆作りの準備になること、の役に立つと考えるひとたちがいるわけでしょ。しかし私の考えでは、社会の役に立とうが立つまいが、イノチ・暮らし・自然を破壊すること、あまつさえそれが確実な研究開発は、してはならないし、ましてそれに公金を使うなんてもってのほか!なのよ。
そんなわけで、「社会の役に立つ」かどうかの判断を、国家に任せるのは気が進まないの。国は学問研究の場には投資してもいい、投資すべきだけれど、その内容が「社会の役に立つ」かどうか判断して投資したりしなかったりするべきではないと思うな。公金を出せば、国家も一種のスポンサーになるわけで、しかもなんらかの「役に立つ」という考えを持つと、ああだこうだと方向性を研究者に押し付けることが充分考えられる。その時、このスポンサーは企業以上に強力だから、企業以上にやっかいだと思うんだ。
だからって妙案はないんだけれど、理想としては、研究者が一般人民にその意義を説明し、賛同する一般人民のカンパによって研究費をまかなう、みたいなことかな。
あ、それって部分的にサコどのが実行してきたことだよね!

サコ南三陸町のように、成果を待てる長い時間の物差しをもっていることが、人間らしい社会ではないかと思います。
チナ:ほんとにそうね。そのとおり。
サコそんなことを弥生人たちに教わりながら、考古学徒サコ、これからもがんばりまっす。
チナ:はい、一人民チナ、応援しまっす!