第338回 科学について!?

中山千夏(在日伊豆半島人)

サコちゃんの植物談義、楽しく読んで、おしまいに森センセを思い出しましたよ。
故・森浩一。サコちゃんの考古学の師匠。
よく食事を共にする機会がありましたが、楽しい酒飲みのオジサンで(考古関係のセンセイはたいていそうね(笑))がやがややっているうちに、ふと真顔になり、そのへんの紙切れ、たいていは箸袋を広げた紙に、なにやら書き付けてらした。
ある時、なに書いてるの? とたずねたら、「毎晩、何を食べたかメモしている。古代の人間の食性を考える役に立つから」。そんなお答えでした。
この時ほど、森さんに「学者」を感じたことはありません。
自分の食事まで研究材料にするなんて、根っからの科学者カタギなんだなあ、と。
サコちゃんも、リッパにその気質を受け継いでいますね。

人間は知りたがりや。知るために、調べたい、という衝動を持っていて、特にそれの強い人間たちが科学の世界を作ってきたのでしょう。科学の調査研究実験などは、その衝動の発露だと思います。
だから私は科学が好きです。なんでも知りたい、という実に人間らしい動機と、そのために調べたい、実験したいという実に人間らしい衝動が、科学にはあるからです。

ところが、この人間らしさは、「何か」の影響で非人間的なもの、人間に敵対するものに変わってしまう。
その最大の実例は原水爆と原発ですね。大学による少数民族の「盗骨」などが起こったのも、同じメカニズムじゃないかな。
思うにその「何か」、人間的な衝動に発する科学が非人間的な事態を引き起こすもとになる「何か」とは、科学を社会に「役立てる」という考えではないかしら。ひたすら衝動で暴走したフランケンシュタイン博士は別として、現実にはその考えが科学を非人間的なものに変えてしまうんじゃないかしら。
調査研究実験にはおカネがかかる。箸袋ですむうちはいいけれど、大きな調査研究となると、とても個人ではまかなえない。それでも科学したいとなると、大企業や国家など、大きなスポンサーが必要になる。そして特に国庫を利用する場合、これこれの調査研究実験は公の役に立つ、つまり社会の「役に立つ」から公金でおこなう、という考えが出てくる。
たとえば、単なる地殻調査のデータ収集に研究費を出すことはまずないでしょうが、「地震予知のためのデータ収集」なら、公金を引き出せる。単なる海洋調査におカネは出ないだろうけど、「津波予知のための研究調査」なら出る。
そこで、科学の衝動にかられた学者たちは、無理やり「役に立つ」ことを考え出してでも、科学の衝動を実現しようとする。それで純粋さを失った科学の衝動は暴走し人間に災難をもたらす。
思うに「社会の役に立つ」というのは、人間の衝動、純粋な科学の衝動ではない。だから暴走が起きてしまうのね。
私たち外野は、研究費目当てに見える科学者がいると、カネに転んだ、なんて言ってしまうけれど、正確には、純粋な科学の衝動を実現したいばっかりに、その純粋さを失ってしまった、ということじゃないかな。

そんなわけで、人間らしさを大切にする社会というものは、科学が科学であるがゆえに公金で補助する、そんな社会だと思うようになったの。
納税者としては、ナンの役にも立たない科学的調査研究実験にこそ、公費を使っていい、と思う。間違って役に立ったらモウケモノ、のノリでね。
そのかわり科学者には、あまりおカネのかかる調査研究実験は、私費でやってもらいたい。もちろん確実安全の限りでね。
または民間から研究費を受けてもらいたい。ただしスポンサーを明確にしてね。スポーツみたいになんにでもスポンサーのロゴをつけるとか(笑)

だから、なんの役にもたたない、純粋に「知りたい!」を満足させるための遺跡保護は、科学のなかの科学だよ。ついでに山野草の保護をして、一年中、憩いの場として地域住民が楽しめたら、モウケモノ。
それを援助する自治体は、人間らしい社会を実現しているのだ。
科学者サコ、これからもガンバレ!


今年は近所にツクシがでたよ! 食べちゃった!