第332回 見てきました、大山古墳

佐古和枝(在日山陰人)

千夏さんのご実家のお話は、初耳でした。千夏さんが生まれたのが終戦からわずか3年後だから、まさに「戦争の落とし子」なのですね。千夏さんから9年遅れてこの世に登場するサコは、戦争など意識することもなく育ちましたが、近年になって老母が戦時中の話をポロリポロリとするようになり、「へぇ〜!」と驚くことがいろいろあります。今のうちに、ちゃんと聞いておかねばと思います。

さて、昨年11月22日、大阪府堺市にある大山古墳の発掘現場を見学してきました。大山古墳といえば、宮内庁が「仁徳天皇陵」に治定する、わが国最大の前方後円墳です。
大山古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」は5世紀を中心にした古墳群で、巨大な前方後円墳が集中していることで知られています。この古墳群を世界文化遺産に!という動きは2011年から始まっていましたが、2018年1月、ついに世界遺産に推薦されることが決定。けれども、その巨大古墳の多くが、宮内庁によって天皇陵(陵墓参考地を含む)に治定され、非公開です。世界遺産となれば、国内はもとより海外からも多数の観光客が訪れます。どうするのか、気になるところです。

 

今回の大山古墳の発掘調査は、墳丘をとりまくいちばん内側の第1堤の保存状況を確認するためということでした。発掘調査は、前方部の東のコーナーでおこなわれ、墳丘をおおう葺石のような小さな石が、堤の上面に敷かれていたことが初めてわかりました。円筒埴輪も並んでいました。石を敷き並べると、太陽光に輝いて遠くからもよく見えるそうです。もともと大山古墳は、船から見えることを意識して、海際に造られたと考えられています。堤にまで石を敷いたのは、視覚的な効果を意識してのことかもしれません。

 

普段は入れない遥拝所から中に入り、第1堤の上を歩いて発掘現場に向かう道すがら、生い茂った樹木の隙間から、大山古墳の墳丘本体がチラチラと見え隠れします。その巨大さは、濠の外側の道路を歩いたり、空撮写真でわかっているつもりでしたが、堤に立って目の当たりにすると、まさに「度肝を抜かれた」という壮大さでした。
私は、大きな古墳とかお城などを見ても、権力者の陰で苦しんだ人々のことが想起されて、あまりワクワクしないのですが、今回は不覚にも(?)感動しました。なるほど世界遺産になってもいいかなと思いました。一般の皆さんにもこの感動を体験していただけば、文化財保護への理解に繋がることでしょう。世界遺産登録をきっかけに、第1堤まで公開されることを期待しています。

 

ただ、世界遺産にむけて気になるのが、古墳の呼び方です。考古学的な見地でいえば、大山古墳の築造年代は、仁徳大王の時期より半世紀近く新しくなります。あの古墳が仁徳大王の墓だという確実な根拠はありません。それを「仁徳陵」と呼ぶことで、それが学術的に検証された事実であるかのような誤解を広めることになります。「〇〇(天皇)陵」という呼び方は不適正であると初めて主張したのが、私の恩師で千夏さんもよくご存じの森浩一先生、1970年のことでした。学界もそれに賛同し、学校の歴史教科書も「仁徳陵」という表記から「大山(仁徳陵)古墳」などの表記となり、すでに定着しています。なのに、今回の発掘調査の報道をみると、「仁徳陵」と表記した新聞の方が多くて、驚きました。世界遺産登録で、また「仁徳陵」という呼称に逆行しそうで、ちょっと心配しているサコでした。