第322回 ボニン・パレード

中山千夏(在日伊豆半島人)

ただいま!
7月2日15時30分、父島二見港を出航。翌3日、予定より10分早い15時20分、東京竹芝桟橋に着きました。ホッカホカのボニン・アイランズこと小笠原情報をお届けします!

小笠原諸島は、東京から南南東へ約1000km、父島・母島・硫黄島などを含む約30の島々。写真は島の固有(亜)種アカガシラカラスバト。父島、小港で遭遇。

今年は返還50周年。返還祭の島民パレードは、40周年記念の時以上ににぎやかだったのよ。島民が勝手にグループ作って、40組ぐらいでたんじゃないかな。
その一部を写真でお送りします、見てね!

あ、サコせんせには蛇足だけど、あとに小笠原の簡単な年表を書いておきました。それを承知しているほうが、写真も面白くなると思って。
では、ボニン島民パレード紙芝居、始まり始まり!

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てなところ。
7日はむきばんだのやよい塾で会うんだよね。
その時また詳しくボニンの話をしたいな。ではでは。

付録 ボニン・アイランズと人間の簡単な年表

1639年 太平洋に進出してきたオランダ東インド会社のエンゲル号、フラフト号が2つの無人島を発見。記録から父島、母島と考えられている。

1670年 紀州の蜜柑船が無人島(母島)に漂着。船を修理する間、島に暮らした乗組員7人が、帰還。下田奉行所で次第を報告。幕府、詳細に聴取し記録する。

1675年 幕府、初の調査船「富国寿丸」を派遣。隊長は島を日本のものとする印を残し、各地に日本名の地名を与えた。36日に渡る父島、母島などの詳細な調査記録は、幕府から将軍などに回覧された。時に島は〔無人島(ブニンシマ)〕と命名された。

1728年 エンゲルベルト・ケンペル『日本誌』出版(ヨーロッパで)。
1690年から約2年、医師として長崎に滞在していたケンペルは、蜜柑船の漂着事件をこの本に書いていた。本書によって〔無人島〕はヨーロッパの知識になった。

1785年 林子平のいわば植民奨励書『三国通覧図説』が「富国寿丸」の調査報告を元に〔無人島〕を紹介。本書はヨーロッパでも読まれた。

1817年 中国学者ジャン=ピエール・アベル=レミュザが、『三国通覧図説』の図を元に「Bonin Islands」の地理的情報をフランス・アカデミーに報告。ボニンはブニン(無人)の訛。以後、ヨーロッパの世界地図にボニン・アイランズが出現することとなる。

1824年 記録上、初の捕鯨船(英国籍)がボニンに寄港。以後、多くの捕鯨船が基地として利用する。事故で数年、住んだ乗組員もいた。

1828年 イギリスの海洋調査の軍艦がボニンに上陸、調査。ヨーロッパ初の調査だったため、船長は当然、島々をイギリスの領土とし、ピール島(現父島)など各地を英語で命名した。以後、ロシアも含む「先進国」の軍艦が、島を調査に訪れて記録を残している。

1830年 ナサニエル・セイボリー(米国籍)ほかヨーロッパ国籍の白人計5人と25人のミクロネシア諸島原住民が、ハワイ王国駐在の英国領事の認可のもと、ピール島に「植民」、初の住民(つまり先住民)となる
彼らの子孫は今も島の最旧家として父島に暮らしている。

1853年 アメリカ東インド艦隊(いわゆる黒船)を率いたペリー提督、ピール島を訪れる。
島の代表と会談、「ピール島植民地規約」を制定。その後、横浜に入港して幕府に開国を迫った。
規約に基づき、島民は親米政府であるピール島自治政府を樹立、セイボリーが首長となった。

1862年 日本領土・小笠原島の浮上
幕府は突然、〔無人島〕を「小笠原島」と再命名し(その根拠と正否については長くなるので省く)、咸臨丸で調査隊を派遣。
同時に駐日各国代表に小笠原諸島の領有権を通告。(それがなぜすんなり米英ほかに受け入れられたのか、経緯不明)。
調査隊代表は島民と会談し、小笠原は日本領土であることを告げ、今後も島民の国籍も名も既得権もそのままに保護すること、を約束して同意を呼びかけた。

1876(明治8)年 各国への通告により小笠原諸島の日本領有が確定
主として八丈島から日本人37名が父島に植民、定住し、日系島民の祖となった(のちに日系旧島民と呼ばれるようになる)。
1880年 小笠原は東京府の管轄となり、以後、日本の行政区のひとつとして日本国家の管理下に完全に組み込まれてゆく。
1882年 欧米系先住民全員が日本国籍を取得(いわゆる帰化。のちに欧米系旧島民と呼ばれるようになる)。

1920年 日本陸軍父島支部設置
以後、太平洋の日本の要塞として島々の軍事基地化が進む。
同時に、父島や母島は異国的な観光地、南洋諸島への船の寄港地、バナナや蔬菜の産地、サトウキビ栽培と砂糖の産地、サンゴの採取加工地などとして年々賑わいを増していく。
欧米系文化と日系文化は自然に融和していた。おとなたちは隣人であり、子どもたちはみんな幼馴染だった。欧米系の妻たちの多くは日系島民だったし、欧米系の牧師が英語も教える教会と同時に、神社があった。
だが、日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まり、戦時体制が強まるとそうはいかない。動員など内地同様の戦時労働がごく若い島民にまで課せられた。
欧米系の島民は、欧米の名前や言語、文化を維持するのも困難になり、セイボリーを瀬堀、ワシントンを大平や木村、ウェブを上部、イーデスを京子、などと変えて生きた。

1944年 7月、太平洋戦争の激化に伴い、島民が強制疎開させられた。
時に、父島、母島、硫黄島などに合わせて約8000人の島民が居住していたが、その7000人弱が静岡県の清水などに送られて疎開暮らしを強制された。一家から1人ずつの男子が軍属として残留を命じられ、そのうち約100人は硫黄島の戦で死亡、また八丈に向かった引き上げ船の1艘は米軍の魚雷を受けて20人が死亡した。

1945年 2月〜3月、硫黄島の激戦。日本兵18375名、米兵6821名、島民約100名が死亡。
8月15日、天皇の敗戦宣言ラジオ放送。
9月3日、小笠原の日本軍、米軍駆逐艦上で日本軍降伏に調印。

1946年 小笠原諸島は米軍の占領統治となる。
米軍は、強制疎開者のうち欧米系旧島民とその家族のみ135人の帰島を許可島に生き残っていた日系旧島民すべてを島から追放した。
欧米系旧島民は米軍が建てたカマボコハウスに住み、米軍の仕事をした。最初の2、3年は米国の補助によって生活していた。島民は日本本土との往来はもちろん、自由に島を出ることはできなかった。

1947年 日系旧島民が「小笠原・硫黄島帰郷促進連盟」設立。帰郷運動を始める。
1948年 ボニン諸島貿易会社(Bonin Islands Trading Company) 略称:BITC設立。これによって男たちは、米軍のコントロール範囲でグアムや周辺の島々と貿易をしたり(農業や漁業の成果を売り、米国製品を買った)、労働にでかけたりして、生計が立つようになった。
「レモン林」や「南洋踊り」など、今、小笠原の伝統芸能としてある歌や踊りは、この間にミクロネシアの島々から伝わったものだ。

1956年 父島にラドフォード提督初等学校設立
敗戦後間もなく島で生まれ学齢期になった欧米系島民の子たちは、ここで米軍の子弟と共に米国式の教育を受けた。卒業すると、グアムでホームステイして高校に進んだ。むろん、彼らの母語は英語だった。
日本統治時代に成人した欧米系の島民や、少なくなかった日系の妻、母たちの、言語や文化の苦労が偲ばれる。

1968年 日米、小笠原復帰協定締結、6月26日、発効。この日が島の返還記念日となる。ボニン諸島は再び東京都小笠原村となる。
終戦直後に疎開地で生まれた日系旧島民の子たちは、故郷を一度も見ないまま、もう成人していた。
翌年には「小笠原諸島復興特別措置法」(79年「……振興開発……」と改題)が制定された。
しかし、全く旧に復したわけではなく、居住が許されているのは父島と母島のみ。

1970年 小笠原復興計画を閣議決定
一般の日系旧島民の帰郷が始まったのは、これ以後だろう。
最初の何年かは、日系旧島民とその家族(内地で生まれた子、その子と結婚した配偶者も含む)だけしか島に入れなかった。むろん全員が帰還したわけではない。事情で内地に残った者も少なくなかった。
内地の電化生活、使い捨て文化しか知らない世代の日系人にとって、島での仕事と暮らしは想像を絶する過酷なものだった。東京との航路も貨物船のようなもので、本数が少なく、現在の倍、片道48時間かかった。
同時に、米国人として成長してきた欧米系の若者にとっても、それは、慣れ親しんだ環境を奪われ、自身の言語と文化を強制的に変えなければ生きられない時代の到来だった。父島の彼らの母校、ラドフォード学校の施設は、小笠原村立小中学校となった。
母島にも村立小中学校が設けられ、高校は父島に都立高校ができた。

1979年 初の村議会選挙、村長選挙が実施され、村政が確立した。
 初代のおがさわら丸が就航開始した。(2916年には片道23時間の3代目が就航した)。
一般人の来島、居住も可能になり、観光客や新しい島民がどんどん増えていく。あたらしく島民となった者は「新島民」と呼ばれている。

2001年 6月、私、初渡島。以後、2年を除いて毎年訪問。

2011年 世界自然遺産となり、観光客が増える。

2018年 6月26日、ひときわ大きな返還祭と島民によるパレード(27日)が行われ、母島、父島は沸き立った。
 同世代の日系島民、欧米系島民、両方を友に持つ私は、両者の心中を感じて複雑な思いを懐きながらも、祭りを楽しんだことだった。
現在、居住が許されているのは父島と母島のみ。父島2000人、母島500人ほど。

父島にも硫黄島にも自衛隊が駐屯している。硫黄島には、元島民でも、遺骨収集に時に入島を許されるだけだ。