第307回 学者の眼・作家の眼

中山千夏(在日伊豆半島人)

うううむ、百害あって一利なし、は言い過ぎかぁ・・・10害あって半利あり、くらいに負けとくか、あっはっは。

黒岩重吾さんといえば、サコちゃんの師匠・森浩一さんの音頭取りで「振姫文学賞」ってのやったね! 森さん、黒岩さん、門脇禎二さん、それに私が選考委員で。 
福井県に継体天皇の母・振姫のものとされる古墳があるというので、それにちなんだ短編を行政が募集してね。2年か3年で終わったけど。
んでもって森さんの助手だったサコちゃんと、その選考会で出会って仲良くなったんだよね。なつかしいなあ。私たちのほかは、みなさんあの世へ移住してしまわれたね。

実はあの時、発見したことがある。学者のアタマと作家のアタマは違うんだ!ってね。
森さんも門脇さんも、むろん博学で考えも深い。おおいに信じ尊敬する歴史学者だった。ところが小説となると・・・失礼ながら選評が根底から食い違う。
で、黒岩さんとはぴったり一致するわけ。べつにそう肝胆相照らす仲ってわけでもないのにね。森さん・門脇さんVS黒岩さん・私、で評価がまっぷたつに分かれることもあった。
それで、考古に優れていても、小説読みとして優れているとは限らないのだなあ、と思ったわけ。いや、優れる優れないはコッチの見方であってね、アチラから見れば我々の鑑識眼に問題ありってことなんだろうけど・・・視点が違うのかな?
そうかもしれない。そうだ、この話もサコちゃんは学者の視点、私はもっぱら作家の視点で考えるから、微妙に違ってくるのかもよ。

百害あって一利なし、は言い過ぎにしても、歴史を物語(小説やドラマ)にすることには、看過できない重い問題がある、やはり私はそう思うのよ。小説やドラマを楽しむことが歴史を学ぶ足がかりになればいいではないか、ではすまない気がする。むしろ、歴史物語を楽しむことと歴史を学ぶこととは、つっかえるんじゃないかと。すでに学者であるサコちゃんは別にして、だけどね。

もう少し、学問と物語の関係を整理して話してみようかな。

学問は、モノゴトの事実・真実・実相を追求するものでしょ。
その作業は観察と解釈からなるわけよね。
歴史学の場合は遺跡や遺物や古文書を観察し解釈することによって、過去の事実を追求する。

いっぽう物語とは、自他の人間を観察して、ウソで固めて、人間を語る。
本質的にウソ話でしょ?
作家はせっせとウソをつき、受け手はウソを楽しむ、それが物語だ、と言っていい。
そして、実在の人物や歴史に依拠しているといっても、それが物語である以上、ウソには違いない。どこがウソでどこが事実に依拠しているのか、はっきりわかるようでは物語とは言えないしね。
全体として各種ファンタジーはウソ度が最大の物語であり、実録モノ(実録に依拠した偉人や有名人の伝記・歴史や事件の過程を語る物語)はウソ度が低い物語。
とはいえ、物語である以上、実録モノもウソを含み、また学問と違って、ウソを含むことを許されている。歓迎されてすらいる。物語は、事実を示すのが使命ではなく、乱暴に言えばオモシロければいいのだから。
サコちゃんの目下の敵、ゲームと漫画も、ウソが大きい(そしてそれを真に受けるトンデモ学生が多い)のはサコ先生にとって困りものではあっても、立派な物語です。

むろん物語にも上等下等があるけれど、これは決してウソの多寡ではない。
受け手にとってオモシロイもの、言い換えると受け手の情によく響くものほど上等だと言える。なにをオモシロイと思うかは、むろんそれぞれ異なるんですがね。
この、情に絡む、ところに問題がある、と思うわけ。
当然、よくできた物語は人間の心を掴む。情動を操る。
学問で感動することももちろんあるが、その感動は情動であるよりも知的興奮である。そうでなければならないでしょう。
だから、まさにサコちゃんがゲーム作りで経験したように、学問的目的(タメになること・知的感動)とゲームとしてのオモシロさ(物語的感動・情動)は両立しにくい。

物語は情動を操る。ここに、歴史を物語化することの危険があると私は危ぶむわけ。
権力が、しばしば物語を利用して大衆を全体主義へ戦争へと導いてきたのは、その特色があったればこそ。国や民族を誇る物語や古今の英雄を讃える物語が、どれほど国民総決起の流れを作る役に立ったか、そして今も世界中でそれがどんなに行われていることか。
物語のそうした利用に対する強い恐れを持っているので、百害あって一利なし、という極論を言ってしまうのですね、私は。

ついでに言ってしまうと・・・。
先にも言ったとおり物語とは、なんらかの事実を材料にウソを加えて形成するものです。
カフカのような幻想的な作品でも、作者自身の実体験や実感が材料になっているはず。
偉人伝や歴史モノは、その材料がはっきりわかる作品、ということでしょう。
そこで、私は首を傾げます。
物語を作ることは、そもそもウソを作ることなのだ。物語はウソ八百でかまわないのだ。その材料に、わざわざ実在の有名人や歴史過程を用いるのはなぜだろう? 
どういう必要があろうか?と。

物語を作る側から考えると、実在の有名人や歴史過程を材料に用いる動機は、以下のようなものではありますまいか。

@筋書きを無から考え出すのが辛いから。有名人の生涯や歴史にはすでに筋書きがあるので、これを材料にすれば楽である。
A有名人や歴史の評価をある方向に強力に向けたいから。情を動かす物語の力は、学問よりもはるかに多くの人心を掌握できるので、学問的な論争をするよりも楽に目的を達せられる。
Bとある有名人やとある時代が好きだから。好きなことは理由なく書きたくなるものだ。いわばオタク心理で。

ほかに有名人や歴史過程を材料に物語を作る理由があるかしら? ううむ、考えつかない。
以上@〜Bのような動機で作られた物語が、たまたまおもしろかったとしても、それ以上の意味はない、と私は思う。
それなのに歴史モノがしばしば過大評価されるのは、材料が豊富で作者の知性が高く見える作品は、歴史学と混同されるからではないだろうか?

以上、言ってみればこれは、安易に偉人伝や歴史物語を作り出す文芸者への苦情ですな。
そう言う私も、まだ考えが浅い時、「子ども向けのこれまでにない偉人伝を」との依頼を受けて、ヒミコを選んで書いちゃいました。たはははは(;´∀`)
幸い、それ以外の古代史関係は、すべて随想であって物語は書いていませんが。たったひとつ、古代天皇時代の無名人を主人公にした短編があるだけです。ほっ。

ところで、問題は、なぜほかの学問、たとえば生物学と物語の関係には私はこだわらないのか、ということです。
生物については歴史以上に学者をイライラさせる物語があるようですものね。

それは私が、生物の事実、鳥や魚や草木の事実については一般人は無知でいい、大きく誤った認識を持っていてもいい、大過ない、と思っているからでしょう。
しかし歴史についてはみんなが事実を知る必要がある。なぜなら、どうしたら戦争や原発事故という悲惨な人為ミスから、私たちは逃れられるのか、みんなで考えなければならない。為政者任せにはできない。為政者は一般人と立場が違うので、一般人の立場を守るには、一般人自身が考え行動しなければダメだ。
ところで社会問題は歴史の事実に学ぶしかない。だから一般人も、歴史の事実だけは多少とも学問し自分なりの歴史観を持つ必要がある。そう思います。その時、先にも言ったように、物語は教材として不適当、ともすれば有害。そう考えているんですね。

また心あるモノシリは、学問的事実をなんとか広めるべく努めてもらいたい。そう、サコちゃんみたいに、非学徒のほうに汗水たらして走り寄ってもらいたい。
その時、楽しくオモシロイ物語を利用しないでほしい。
リテラシーが大切なのはもちろんです。しかし、現在のできごとの真偽を知るのさえなかなかなのに、学問的な正否を見分ける力は一般われわれにはありません。つまり漫画昔話を実の歴史と受け取りかねないのがわれわれの平均なのです。
実のところ、学問的事実というやつは、門外漢にはくそおもしろくもいものだと思います。
だから伝えるほうも伝えられるほうも、くそおもしろくもない覚悟で臨むのが正解ではないかと思います。
・・・って、うは、またもや極論で、すんませんでしたぁ(;´∀`)