第305回 歴史モノの小説やドラマって…

中山千夏(在日伊豆半島人)

あはは、なんだかお杉さんお玉さんが、とても身近になりましたよ。

「歴史解釈、かくあるべし!」のご意見、まったく同感です。

>>過去に起きた“事実”は点としてあり、点と点をつなぐ線になるのが“解釈”。

ほんとにそうね。
しかもこれ、歴史だけのことではなくて、社会科学でも物理学でも、およそ学問はなんでもそうなんじゃないかしら。
人間は世界について、「点」としての事実しか観察できない。その点を、サコちゃん言うとおり「グイグイと線で繋いで物語を紡いで見せる」……んだと思います。そういえば、「すべては解釈学である」みたいなことを言っている西洋人の本を昔、読んだ気がします。

ところで、「物語を紡いで見せる」のは、小説やドラマのまさに十八番なわけですが、題材が歴史の小説やドラマには、無学なわれらが歴史の事実を正視するのをさまたげる働きが大きい、と最近、痛感しています。
いっそ、荒唐無稽なオハナシなら、こちらも事実とは別のもの、として受け取るので問題ありません。アブナイのは、事実を元にしたマジメな歴史物語です。
そのような小説やドラマは、まさに「事実の点を繋いで物語を紡ぐ」歴史解釈の一形態であるわけですが、学問的な解釈とはことなる点が多々あります。そこがアブナイ。以下に私の懸念をあげます。

@小説やドラマは多少ともウケ狙いが宿命である。事実の点と点を繋ぐ時、ドキュメントであれば、作者の解釈は解釈と明記するものだが、小説・ドラマにはそれがほとんどなく、事実と解釈とが見分けられない。
A同じくウケ狙いの傾向から、魅力的な主人公を設定し、またそれは多少とも歴史に残る人物、政治的・経済的な権力層になりがちである。従って小説・ドラマの歴史物語では、権力層が動かす歴史を描くことになってしまう。これはひとつの解釈にすぎないが、私たちは「事実」と受け取ってしまう。被支配層なしに世界はなく、歴史もないのが事実だろう。
B一般に小説・ドラマの特色は、登場人物の人間性を重視して描く。それが巧みであればあるほど、小説・ドラマは優れたものとなり、私たちの感動を誘う。小説なら「筆先三寸」から生まれるセリフや身振りや思考の描写が、ドラマなら役者の生身が、登場人物の人間性を現前させる。そこで、ドキュメントでなら悪辣以外のなにものでもない権力の圧政や弾圧が、小説・ドラマでは少なくとも「人間として無理ない行動」に見えてしまう。これもひとつの「解釈」にすぎないのに、私たちはそれを歴史の事実と勘違いしてしまう。
Cそもそも、小説やドラマは人間性を描くのに優れた手法なので、小説・ドラマで歴史を物語ることは、歴史を個々の人間性によって解釈することだ。しかし、ヒットラーの人間性が歴史を作ったというのは、事実の一面ではあっても、歴史的事実ではない。むしろ、時の状況がヒットラー政権を現出させた、というのが大きな事実だろう。小説・ドラマはそれを物語るのに適切な方法とは思えない。歴史を正視したいのなら、小説やドラマの歴史解釈は百害あって一利ナシ、と私は思う。

私たちの若いころ、NHK大河ドラマの初期作品である《太閤記》(1965年放送)が大当たりしたの。私も毎週、楽しみに観た。だから、秀吉と聞くと、どうしても緒形拳の味のある笑顔が浮かんでくるのね。名演でした。苦労人の器の大きい人間をよく表現していました。歴史的知識のろくにないハイティーンの私は、秀吉(実は緒形拳演じる人間)に、うんと好感を持ちました。
まさかそれが現実には、理非もない朝鮮侵略戦争を断行し、そのために日本と朝鮮の民衆をたくさん苦しめ死なせたとは、思いもしませんでした。それが手本となって、戦前の対朝鮮政策があったことも、考えてもみませんでした。ドラマでも触れたのかもしれませんが、私の印象には残っていません。

その後も、秀吉人気は健在なようです。それは私たちが、小説・ドラマの物語にまどわされて、学問の中でも問題にされにくい「我が国の偉人の業績のマイナス面」をいまだに正視できないからに違いありません。

ひるがえって、お杉お玉の物語のささやかなこと! 誤解しようにも、小説もドラマも見当たりませんね。学術論文などはあるのかしら。
近年になって、無名な下級武士を主人公にした小説・ドラマは、男子サラリーマンの共感を呼んで盛んなようですが、女芸人となると…。
間違いなく彼女たちも歴史をつくったひとたち。

これからも思いをはせていきたいな。