おたまの正体
土屋由美子
伊東の方言に『歩きおたま』という言葉があります。『ありきおたま』と訛って言いました。歩く、がありくになるのは江戸っ子言葉にもしばしば出てきます。
『歩きおたま』とは外出好きの女性のことを言います。
「うちの由美子のおたまだっせえったあくらい、用を言いつけようったって、へえ、そけえらかっぱちにゃあいやあしねえ」(うちの由美子の外出好きなことといったら、用事を言いつけようと思ってもそのときにはすでに眼の届くあたりにはいなくなっている)この通りの言葉を子供の頃何度聞かされたことでしょう。
「なんでおたまなの?」とある時母にたずねると、
「昔、歩くのが好きなおたまという女がいたあずら」とにべもない答えでした。
大人になって、何かの本の中におたまさんらしい人の記述をみつけました。近世古典の、多分井原西鶴の何かだったと思いますが『お杉お玉とて街道を流して歩く女人居たり。お杉は年増女にて三味線を持ち弾じたり。お玉は若く、黄唐茶の振袖を着て手に竹のササラを持ち鳴らしあどけない声で唄ひたり』確かこんな文章だったと思いますが、今更探すにも何しろ井原西鶴は作品が多すぎます。何篇か開いてみましたが見つかりません。
ところが「東海道中膝栗毛」の中にこんな注釈を見つけました。
――『皇大神宮参詣順路図会』の相の山の条に「前後の坂中、お杉お玉とて藁屋を構えて幕打張り、非人の女いときよらかなる服を装ひて、三味・胡弓・簓(ササラ)などにて唱歌もしれぬ小歌をうたひ、参詣の諸人に銭をもろふ。古へ此銭もらひの中に、お杉お玉とて二人の美女ありてより、終に此者共の名となれり」――
この文によれば、最初は粗末な小屋に幕を張り何の歌ともつかない節まわしで短い歌を歌って、銭をもらって暮らしている女たちがいた。そのような女が何人(何組)もいたので、いつしか道端で歌う女性デュオの総称が『お杉お玉』になった、ということになります。
もしこれが、私が最初に読んだ中にあるように、おたまの方が年少のほとんど子供だったとしたら? 高い声で唄を唄い銭をもらい集めるのがおたまの方だったとしたらお杉よりもお玉の方が人目につきます。幼い子供であれば同情も惹きます。それでいつしか『お杉お玉』が『歩きお玉』に変わっていった可能性もないわけではありません。これはあくまでも私だけの仮説で、どこにも認められてはいませんが。
はるか昔から、街道を芸をして歩く女人はいました。『歩き巫女』といって有名な寺社のPRする歌を歌って流れ歩く女性達や、時代が下ると戦乱などで家を失い家族を失って、芸をしながらさまよい歩く女性達は多くいたことでしょう。
斎藤眞一先生が多くの絵画や著述に遺された越後瞽女さんも昔はもっと広範囲に存在したらしく、私の祖母は「伊東にも瞽女さんは来た」と覚えていました。門付けをしたり、大屋と呼ばれる裕福な家に滞在して夜は近所の人々を集めて唄を聞かせたり。また伊東では小さな旅館を回って、芸者を招ぶほどではない湯治客に娯楽を与えたでしょう。そのような女性達を総称して『歩きおたま』と呼んだことは考えられます。
女性は家の中に居るべき存在でした。外で働く女性は軽視される時代が長く続いていました。「女の子はうちの中にいて縫い物やお勝手仕事をするもんだよ」といつも言っていたのは祖母まででした。
『歩きおたま』とは歩き回らねばならない哀しい女のことで「あまり外ばかりフラフラ歩き回っていると今に本当の『歩きおたま』になっちまうよ」という戒めの意味を持った言葉だったのではないでしょうか。
どちらにしても確証はありません。古典の中に、お玉という名の女性を見つけただけのことです。昔のお玉さんは定住する家を持たず、生きる為にさすらっていなければなりませんでした。
今や、海外旅行やら留学やら世界中に進出する女性があたり前になった世の中では『歩きおたま』という言葉は忘れ去られてしまって当然なのでしょう。 |