■突然の来訪者!ではなくて・・・
チナ:前回に続いて、渡来人の話ですね。さて、なぜこの時期に急に渡来人がやってきたの?
サコ:はい、そこですよね。実は、「急に」でもないんです。九州の縄文人は海の民で、縄文時代前期から朝鮮半島を往来しています。
チナ:縄文時代前期というと?
サコ:7000年前くらいですかね。朝鮮半島南部で、九州の縄文土器とか、九州の黒曜石で作った石器、九州縄文人が使う漁具が出土しています。
チナ:ふむふむ、そうなんだ。
サコ:それに、縄文前期の九州の土器は、本州の縄文土器よりも朝鮮半島の土器に似ているんです。
チナ:交流は前々からあった、と。私、前から思っているんだけど、この時期以前の玄界灘周辺の人や文化を、現代の感覚で朝鮮人・朝鮮文化、日本人・日本文化、と分けてはいけないのではないかな。だって今みたいに国家が民族を区分けしていなかったわけでしょ。だから感じとしては、玄界灘を囲んでひとつの文化圏があり、それを担うひとたちが朝鮮半島側にも日本列島側にも住んでいた、と。もちろん、あっちとこっちでは文化や暮らしに地域差は出るわけだけど、のちに国家的に区分けされたような判然とした境界はなくて、どこが人々の本拠かといえば、玄界灘だった、と。どうでしょ? 
サコ:たしかにまだ「日本」なんて国は誕生していないし、今みたいな厳密な意味での国境もないから、人々は行きたいところに行くだけ。現代に比べたらうんと自由に往来していたはずです。それでも、朝鮮海峡をはさんで半島側と、対馬・壱岐そして九州は、やっぱり土器も違うし、埋葬の仕方も違う。文化が違うんですよね。
チナ:なるほど。ということは、文化的には少し違うけれど、まぁご近所づきあいする間柄っていう感じだったのかな。
サコ:そんなところだと思います。それにしても、海の向こうの九州島に移住しようって、なかなか大変な決断ですよね。
チナ:それが何故だったのかが今回のテーマであある!

 

渡来人がやってきたワケ
サコ:はい、すみません。ひとつには、古くから言われていることですが、中国で戦乱が続いた春秋戦国時代に、周辺地域へ逃れていく人々の波が朝鮮半島にも及び、人口圧に押されてじわじわ南下し、ついに海を渡ったと。
チナ:戦乱からの避難者がトコロテンみたいに押し出したってわけ。
サコ:そうですね。そしてもう一つの説なのですが、縄文時代の終わり頃から弥生時代の開始期にかけて、地球が少し寒くなるんです。その寒冷化の時期について、K大学名誉教授のK先生は、世界各地の砂丘の発達状態と遺跡の関係に注目され、その地層から得られた花粉の分析や年輪年代測定法などから、紀元前8世紀頃だと確認されています。この寒冷期に、水稲農耕が始まる。弥生時代の始まりです。
チナ:ほほう。弥生時代の始まりを、炭素を指標にするC14測定法とは違う方法で確かめているわけね。
サコ:はい、C14測定法も参考にはされていますが、考古学の正攻法で多角的に検証しておられます。カッコいい!
チナ:おお、カッコいいときた(笑)。感じ、わかります(笑)
サコ:そうすると、朝鮮半島から北部九州への移住者が増えたのも、列島で水稲農耕が始まるのも、この寒冷化と無関係ではないだろうと。
チナ:なあるほど、いわゆる紀元前8世紀説だね。
サコ:はい、K先生のファンなので(;^ω^) 
チナ:でたっ(笑)
サコ:いえ、真面目な話、弥生時代の始まりの時期を考える手がかりとして、とても有効なアプローチだと思います。
チナ:私もそんな気がする。無責任ながら(笑)
サコ:縄文時代の遺跡は東日本と九州に多くて、本州の西日本には少ないのですが、縄文時代晩期になると、東日本で遺跡が減少します。寒冷化が始まり、東日本には暮らしにくい状況に陥ったようで、西日本で遺跡が増えはじめます。西日本の遺跡で、東日本の土器や土偶が出土するなど、東日本の縄文文化の影響が九州にも広がります。確実に人が動いているとみられます。
チナ:そうか、そのころ寒さが厳しくなったので東日本の人たちは、暖かい西日本に移住したのかな。そして、朝鮮半島にいた人達も、より暖かい九州島に行こうやって思った。なっとくできます。暖かいし、米作りができそうな平野も広がっているし、あんまり人も多くないし、こりゃいいやって。
サコ:その日暮らしで呑気に暮らしていた縄文人も、やっぱり自分達で食料を確保する努力をしなきゃいけないかなって思い始めていたから、渡来人たちの米作りをみて、こりゃいいやって。

 

在来人と渡来人
チナ:ところで、九州に先住していたひとたちと、米作りを伝えた渡来人たちは、どういう関係をとりむすんだのかしらん。
サコ:はい。ふつうなら、渡来人だけのムラが出現し、地元民らのムラと対峙して、緊張関係が生まれた・・・みたいな感じになりそうなところですが、朝鮮半島系のモノだけが出土するような、いわゆる“渡来者のムラ”みたいな遺跡はみつかっていません。北部九州で稲作を始めた初期農耕のムラでは、朝鮮半島系の土器や石器が出土するので、渡来人が稲作を伝えたと考えられるのですが、朝鮮半島系の土器や石器の出土数はごくわずかでしかないんです。だから、渡来人たちはさほど多くない人数でやってきて、地元のムラにすっと入り込んで、一緒に暮らしていたと考えられています。
チナ:わかるなあ。私、ボニンアイランズこと小笠原とその歴史や、古い島民のミクロネシアとの交流を知ってから、海路で交流できるところには、内陸のイナカとは違うなんかオープンな精神と生活がある、と気がついたの。だから、九州に先住していたひとたちも、新しい住民をすっと受け入れたに違いないと思う。入る方もまた、混ぜてもらうのが上手だったんだと思うなあ。
サコ:その少し前から、東日本から西日本へ移住する人々がいたわけだから、西日本の人々は、ヨソから人がやってくるということに、けっこう慣れていたのかもしれませんよね。やってきた人が東北の人だろうが朝鮮半島の人だろうが、あまり気にしなかったのかも。
チナ:北部九州の人なら、東北の縄文人がしゃべる言葉より、プサンから来た人の言葉の方が、わかりやすかったりしてね。

伝統と革新のはざまで
サコ:面白いなぁと思うのは、初期農耕をやった遺跡で出土する朝鮮半島系の石器をみると、在来(縄文)人がもっている石器ではできない仕事をするための石器だけを取り入れているんですって。
チナ:ん?自分たちも同じような用途の道具をもっていれば、取り入れないということ?
サコ:そうなんです。伐採用の石斧は、朝鮮半島製の方が断然すぐれているにも関わらず、自分たちがもっている、あまり性能のよくない縄文系の石斧を使い続けるんです。
チナ:へ〜、おもしろいね! そんなことがあるんだ。
サコ:水田開発って、まずは森林の抜採から始まりますよね。そこで必要なのが伐採用の石斧なのですが、在来人は、朝鮮半島製の伐採石斧をあえて使わないことで、開発のスピードを抑制したのではないか、というのがE大学名誉教授のS先生の説です。
チナ:おおお! 新鮮!
サコ:おもしろいですよね。稲作文化を初めて受け入れようという時に、在来人たちは、けっこう自己主張をしている。稲作文化とともに伝来する「壺」という形の土器に、縄文的な文様である木の葉文や流水文を施すとか、土器の作り方は朝鮮半島的に変えたけど、土器の形は縄文の伝統を残すとか。
チナ:やみくもに渡来文化を受け入れたのではないわけね。まあ、平和裏に他の文化を受け入れる場合には、そうなるのがふつうでしょうけど。
サコ:たとえば、北部九州の稲作導入期の遺跡では、朝鮮半島的な竪穴式建物(松菊里式住居)も出現するので、渡来人の家かなと思うでしょ?
チナ:うん。
サコ:ところがそう単純にはいかないんですね。福岡市の江辻遺跡は、松菊里式住居がたくさんみつかった遺跡で、建物構造だけをみていると渡来人のムラみたいなのですが、それらの住居が中央広場を中心にドーナツ型に配置されていて、まるで縄文のムラの構造だし、出土する伐採用石斧も縄文的なものばかり。
チナ:はぁ〜!
サコ:そうすると、渡来人と在来(縄文)人が一緒に住んでいたムラなのではないか。あるいは、松菊里式住居って、主柱が2本だけなので、建てるのが簡単らしいんです。それで縄文人が、「簡単でいいなぁ」とマネして建てたのかもしれない。でも、建てるのが簡単なだけに、耐用年数が短いようで、あまり普及はしなかったんですけどね。
チナ:つまり、朝鮮半島的な遺物や遺構がみつかっても、それがすべて「渡来人がやってきた証拠だ」と決めつけてはいけないってことね。
サコ:そういうことです。在来人が外来文化をとりいれたという可能性も考えなきゃいけない。
チナ:何か一つ新しいことがわかると、わからないことが二つ三つ増えてるみたい。コーコガクも大変だね(笑)
サコ:あはは、本人たちはけっこう楽しんでると思います。
で、結局よくわからないんだけれど、おそらく渡来人は、地元の人々に受け入れてもらわないと生きていけないから、稲作や朝鮮半島系の石器、建築技術など、在来人がもっていない知識を提供することで、自分たちを受け入れてもらおうとした。在来人たちは、農耕を始めるために渡来人たちを受け入れたけれども、自分たちのアイデンティティーや生活のペースが一気に崩れることを警戒し、なんでもかんでも取り入れることはせず、自分たちがもっていない道具や技術だけを取り入れた、ということじゃないかと思います。
チナ:なるほどねえ。しかし森林伐採のスピードを抑えるために、あえて性能の悪い自分達の流儀の石斧を使い続けたという見方は、いいね。たぶん、在来縄文人の自然信仰が深く関与していたんじゃないかな。信仰は強いからね。それにしても新しい技術の受け入れ方、外来者との付き合い方など、グローバル化の波に翻弄されている現代人が学ぶべきことが、いろいろありますね。
サコ:というわけで、現代人の反省に落ち着いたところで、
チナ:はい、300回記念特別企画は、
サコ:これにておしまい、

二人:しっつれいいたしましたあm(_ _)m