第295回 明治は遠くなってくれ

中山千夏(在日伊豆半島人)

すごい。さすがサコ先生、勉強力、躍如! 的確に解説してくれました。思わず勉強になっちゃったよぉ。
私もね、あのあと、例の1万円札見ると吐き気がするオジサンから、それほど腹立つワケをじっくり聞いたのね。仲間で取り囲んで講義を強要した(笑)。彼、ずいぶん勉強してるのよ、原典やら現代の諭吉論やら。なにしろ元、高校のセンセだから。

それで、まったくサコちゃんが言う「諭吉の二枚舌」をまざまざと見た。
あれはもう、うっかり口がすべった、なんてもんじゃない。そこは「時代の限界」というやつで、諭吉ばかりを責められないんだろうけど、現代とは言論状況が違うから(ネット炎上の恐れないし(^_^;)、ほんにまあのびのびと二枚舌を振るうこと。
一枚の舌は、新たに作ろうとしていた「大日本帝国国民」「天皇の臣民」向けの言論。「国家の役に立つ国民」となるための「学問のススメ」。どうせ自分にも理解の難しい人権や民主主義なんだから、やっと字が読めるような人間には、これを少々、歪めて糖衣に利用してもわからんだろう、天下国家のためだ少々曲げてもよかろう、とでも考えたんじゃないの?学問のなんたるか、だって、これから国民にしようとしているシモジモにはどうせわからないし、わかる必要もない、って。
そう邪推するのは、ほかで書いてることがあまりにひどいから。
以下一例。自分が発行していた新聞「時事新報」に連載した『貧富論』の一節だって。こちらの舌は知的ウエツカタ向けね。

最も恐るべきものは、貧しくて知識の進んだ人間である。知識があるのにそれを働かせる資力がない者は、うっぷんを晴らすために、世の中の仕組みがすべて不公平なものとみなして、激しく攻撃をする。(略)労働時間を短縮しろ、賃金を値上げしろ・・・知恵があるため、苦痛を知って自分の境遇に満足できず、不平・うっぷんが炸裂する。(略)貧しい人々に教育を与えることの利害をいたさなければならない。(略)貧しくて愚かな人間は御しやすいが、貧しくて知恵のある者はそうはいかない。
(諭吉の全集からオジサンが現代語訳したもの)

貧しい人間に学問させる目的が、当人の富や豊かな精神生活のためではないことを、はっきり言っている。
問題はこの二枚舌を(めったに表には出さないけれど)今もしっかり持っている知的ウエツカタがたくさんいるってことよ。
私は、諭吉の考えを知る前から、現代の知的ウエツカタから、この二枚舌を感じることがよくあったの。だから、諭吉のそれを知った時、ああ!諭吉のご託宣があったから、彼らはこの二枚舌を密かに抱きつつ、隠れキリシタンならぬ隠れ差別主義でもって、民主主義を表の舌にして、国会やマスコミで発言してきたのだな!とわかったわけ。
多くのウエツカタは、諭吉の二枚舌を知らなかったわけではなくて、知っていればこそ1万円札にまでして礼賛してきた、と私は思うよ。そして、私たちが諭吉を「日本民主主義の祖」みたいに思っているのを、軽蔑しながら、「よしよし国民はそれでよし」と頷いていたに違いない。腹立つ!

キリがないけどもう一例だけ腹立ちのもとを。
やはり「時事新報」の社説。題がすごい。「制圧もまた愉快なるかな」! 
内容はもっとすごい。オジサンによると、諭吉の英国船での体験記。英国人が徹底的に「支那人」を冒涜し蔑む様子を見ていて、諭吉が考えたこと。

「外国人のことなので、記者(諭吉)はこの始末を傍観して、深く支那人を憐れむのでもなく、英国人を憎むのでもなく、ただ英国人民の圧制をうらやむほかはなかった」「圧制を憎むのは人の性だというが、人が自分を圧制するのを憎むだけで、自分自身が圧制を行うことは人間最上の愉快といっていいだろう」「吾輩の願いは、この(英国人らの)圧制を圧制して、世界中の圧制を独占したいということだけである」「印度・支那の人民がこのように英国人に苦しめられるのは苦しいことであるが、英国人が威力と権力をほしいままにするのはまた甚だ愉快なことだろう。一方を哀れむと同時に一方をうらやみ、私も日本人だ。いつか一度は、日本の国威を輝かせて印度・支那の土人らを御することに英国人を見習うだけでなく、その英国人も苦しめて東洋の権柄を我が一手に握ってやろうと、壮年血気の時に、密かに心に約束して、いまだに忘れることができない」。
(同上。差別語は原典のまま)

ビョーキや・・・。ほとんどDV男の精神構造。これで朝鮮侵略に力を注いだわけだ。
こういうひとがいることは理解する。いても抹殺はしない。でも、国家経営や教育界の要職には、ぜったいつかせちゃならぬ。こういう精神がハバをきかせたおかげで、大日本帝国がメデタク崩壊するまでの間に、どのくらいの(知恵があったりなかったりの)貧しい者たちが「圧制」に苦しみ崩壊していったことか。
そもそも、自分の歪んだ権力欲を検証もせず、「人の性」といい抜けて平気でいるのは、学者の態度ではない。無学な貧乏人がアンタに教えるのもおこがましいが、人間は可変なのだ、ちっとも貧しくなく馬に食わせるほどの学識があっても、内省し他者と協調するセンスを磨くことによって、圧制をするのは不快で大嫌い、になるものなのだ、私はそういうひとと、何人も出会っている。

諭吉は学者ではない、と思う。少なくとも現代的な学者ではない。現代人で一番似ているタイプは、政権のトップにある政治家、もしくは大企業のエライさんだと思う。

今、首相官邸のHPには、こんな知らせが出ている。発信元は【首相官邸・内閣官房「明治150年」関連施策推進室・同関連施策各府省庁連絡会議】。タイトルは〔「明治150年」に向けた関連施策の推進について 平成28年11月4日〕

 平成30年(2018年)は、明治元年(1868年)から起算して満150年の年に当たります。
 明治150年をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なことです。
 このため、「明治150年」に向けた関連施策を推進することとなりました。

「明治の精神に学び」だって。さぞかし諭吉の論説を称揚するんだろうな、政府スジの二枚舌で。アベちゃんの度重なる諭吉引用もこの明治持ち上げ施策の一環でしょう。諭吉精神継承者がゴマンといるマスコミや企業がせっせと推進することでしょう。狙いはもちろん大日本帝国の夢よ今一度! やれやれ。
はばかりながら2018年はわれら昭和の団塊70年です。あ、連動して〔団塊による明治の精神大検証大会〕でも、ど〜〜〜〜んとやりますか、後楽園ホールかなんかで(笑)。補助金、出ないかなあ。