第292回 「建国記念の日」って何?

佐古和枝(在日山陰人)

新年のスタートに、3回連続で神武伝承をとりあげました。わからないことだらけで、冷や汗かきかきでしたが、そもそも『古事記』や『日本書紀』に書いてある話の大半は、そういう曖昧模糊としたものだと思っていただく方がよい。そのわからなさぶりをお伝えすることも、意味のあることではないかと思っておりまする。

ところで先日2月11日は、建国記念の日という祝日でした。「建国記念の日って、どういう日?」と学生に尋ねても、ほとんど知りません「どういう意味か、疑問に思ったことはないの?」と聞いても、「べつに。祝日なら何でもいい」って。こらっ!!
年配の方なら、2月11日はかつての「紀元節」だとご存じでしょう。明治5年11月15日(1872年12月15日)、明治政府は神武天皇の即位の年をもって「紀元」とし、1月29日を神武即位の日として祝日にすることを定めました。神武天皇の即位年とは、『日本書紀』に記載された年を西暦になおして紀元前660年。その1月1日に神武は即位しているので、それを新暦に置き換えて1月29日。こうして戦前は、「紀元」または「皇紀」とつけば神武即位年を元年とする暦の数え方でした。

その後、明治5年12月3日を明治6年1月1日として新暦が施行されることになりました。それまで使われていた旧暦(太陰太陽暦)は、世界的にみてもけっこう完成度が高く、日本列島の生業ともうまくかみあっていたので、太陽暦の導入には反対する声が多かったそうですが、西洋化を推進する勢力に押し切られたようです。
そして明治6年3月、神武天皇即位日を「紀元節」と呼ぶことになりました。また、1月29日だと旧正月を祝う日みたいなので、2月11日に定め直して今日にいたる。
戦前は、記紀に書かれたことをすべて事実とみる「皇国史観」のもと、紀元節にさまざまな式典や祭儀がおこなわれていました。とくに昭和15年(1940年)には、皇紀2600年の記念行事が、外地を含む全国各地で賑やかに開催されました。
戦後、日本政府は紀元節を「建国の日」として残そうととしましたが、GHQによって廃止されました。そりゃ、そうでしょうよ。実在したかどうかもわからない人物の話です。すでに1870年代に那珂通世という学者が、神武即位年を紀元前660年にしたのは7世紀の推古朝の作為だったというカラクリを明らかにしており、いまでも学界の定説になっています。ちなみに、近年の考古学の成果でいえば、紀元前660年は縄文時代の終わり頃、まだ稲作も本格化していない時代です。天皇制や国家建設なんて、とてもとても・・・(;^ω^)

ところが、諦めない人達がいたんですね。はやくも1951(昭和26)年頃に紀元節復活をめざす動きが始まり、1957年から保守系議員達が「建国記念日」制定に関する法案を国会に提出しては廃案になるということが何度も繰り返されてきた。そして1966年、「建国記念の日」と“の”を入れて、建国されたということを記念する日、みたいに意味をボカしたことで反対派の合意をとりつけ、ようやく祝日として制定された。執念、ですね。

戦後の日本史研究は、皇国史観への反省・悔悟とその否定から始まり、学校の歴史教育も戦前の教科書を黒く塗り消するところから再開されました。敗戦によって日本は生まれ変わった、と表面的には思われた。だけど、その裏側で、戦前の皇国史観そのまんまの人達が生き続けていたことが、「建国記念の日」をめぐる経緯からも、よくわかります。実証的な研究で明らかにされた歴史事実より、“自分たちに都合のよい歴史の物語”を信じたい人達。。。どうも最近、そういう人達がまた増えてきているようで、心がザワつきます。
いま文科省が学習指導要領の改訂案を公開し、パブリック・コメントを募集中です(3月15日まで)。それをみると、あいかわらず歴史を学ぶ楽しさは伝わらないだろうなと嘆息。大切なことは、歴史的事実の羅列を覚えることではなく、過去のさまざまな人間ドラマにむきあい、なぜそういうことが起きたのか、その結果どうなったのかを知り、そこから何を学ぶかだと思います。そういう歴史教育をしてもらえたら、「神武天皇は実在したと信じている」なんて言う国会議員は生まれないと思うけどな。


奈良県の大台ヶ原にある神武像