◯紀の川と吉野川

チナ さて、イワレヒコ(神武)伝説、『日本書紀』に添ってやってまいりましたが、最終回です。
サコ はいはい。
チナ 前回は、九州を出たイワレヒコ軍が、日下(クサカ、今の大阪市東部)で地元に猛反撃されて大回りして熊野に入り、そこで殺したトベ(女の首長)に祟られ全軍失神、からくも天神が派遣した大カラスに助けられた、というところまでいきました。
サコ 八咫烏(ヤタガラス)。たしかに八咫って、大きいという意味があるけれど、大カラスっていわれちゃうと、道端でゴミ袋つついてるカラスの親分みたいだなぁ(;^ω^)
チナ あははは、ごめんごめん。でもカラスはカラスでしょ?
サコ 紀伊の熊野では、カラスは神様のお使いです。なかでも八咫烏は、熊野大神にお仕えする神聖なカラスですぞ。それも、イワレヒコ伝承からきているんでしょうね。足も三本あるんですぞ。
チナ ありゃりゃ。
サコ それでですね、三本足のカラスって、中国や高句麗の古墳壁画によく描かれていて・・・おっと、いけない。また話が横道にそれるので、カラスの話は打ち切ります。
チナ はい(笑)
サコ イワレヒコは、熊野から北上して奈良盆地の南東にあたるウダ(菟田、宇陀)にたどり着き、あちこちの有力者を征服しながら奈良盆地に入って天皇の位につく、という話なのですが、宇陀から奈良盆地に入るまでに、なんだかよくわからない話が出てきます。
チナ というと?
サコ 宇陀を平定してから、ちょいと吉野を見にいった、というんですね。その吉野で、まず、井戸のなかから人が出てきたんですが、その人はなんと体が光ってて、尾が生えていた。誰何すると「私は国神である、名はイヒカ(井光)」と答えた。これは、吉野首の祖先だと書いてある。つまり、吉野の首長一族の祖先だというんですね。
チナ おお、『古事記』にも同じ話がある。
サコ でしょ。
チナ「尾のある人」って、なんか唐突だよね。日下で戦った相手は人間。トベも人間。祟ったり助けたりしたのは神、とここまで出きたのはどちらかなのに。少なくとも『古事記』では、尾っぽのある人が出るのはここだけだなあ。
サコ それで、少し行くと、またまた尾のあるのが岩を押し分けて出てきて、「私はイワオシワク(磐排別)の子だ」と名乗る。これは吉野の国巣(クズ)の祖先だという。吉野の国?というのは、大嘗祭や宮中のさまざまな節会にメデタイご馳走を献上して、歌笛を奏する一族です。
さらに行くと、ヤナで魚とりをしている者がいて、
チナ あ、ヤナ(梁)は木や竹で作る大きなスノコ状の構造物で、これを川の流れに設置して、魚が流れ込みひっかかるのを待つという・・・のどかねえ。
サコ はははは。その者が、「私はニヘモツの子」と名乗ります。これは「阿太の鵜飼部」の祖先だと書いてあります。阿太は、阿多隼人のアタだと思われます。阿多隼人は、海幸彦・山幸彦伝承の海幸彦の末裔で、山幸彦がイワレヒコのひいお爺ちゃんであるヒコホホデミ。
チナ その筋書きによると、阿多隼人と天皇家の先祖ヒコホホデミは兄弟だった、ということになるでしょ。記紀が完成した頃、中央政府は隼人を差別しているのに、不思議な話。
サコ 不思議ですよね。
チナ もっとも海幸は山幸に降伏して家来になると誓うんだけどね。そもそもニニギは天下ってすぐ、「吾田」で美人を娶っている。さらにイワレヒコは九州で最初の妻を娶っていて、それは「日向国吾田邑」のヒメだったと書いてある。これらのアタは、鹿児島西部の古称、隼人はその地の族、というのが定説ね。
サコ はい。
チナ てことは、神話でもイワレヒコ伝承でも鹿児島の縁戚関係であるアタ隼人が、吉野の国神としてイワレヒコを歓迎することになるわけで、ここにはよほどの曰くがありそう。吉野は謎の宝庫かも。
サコ そうそう。その吉野の謎にわけ入ってみましょう。


吉野

チナ ところでですね、ニヘモツが魚取りしていたのは、吉野川と考えていいんでしょ。
サコ そうですね。
チナ あのですね、地理音痴としては吉野川は苦手ですよぉ。
サコ へ?
チナ 地図で見ようとネット検索したら、四国の吉野川ばっかり出てきて驚いた。
サコ ああ、はいはい。
チナ それで近畿の吉野川は「紀の川(紀ノ川、紀伊川)」が代表名で、大台ケ原(奈良と三重の県境の多雨地帯)を源流に、奈良県から和歌山県へと流れていて、奈良県内だけが流域の名にちなんで、吉野川と古来呼ばれているんだってね。つまり吉野川の下流が紀の川なんだって。
サコ たしかに、まぎらわしいですね(^_^;)
チナ もちろん紀の川は聞き知っていたけど、吉野川と同じとは、つゆ知りませんでしたぁ、とほほほほ。
サコ あはははは(^_^;)
チナ でね、それとほぼ同じ話は『古事記』にもあるでしょ。ただし、ウダ平定のあとではなくて、八咫烏に導かれて熊野から直に、「吉野河の川尻(吉野川の河口ふきん)に出た時に」、魚取りのニヘモツに会うことになってるのね。だけど熊野から山越えして奈良に入ったところなら、吉野川の川上だろうに、川下(河尻)とは、地理的におかしい、と本居宣長さんも言っているそうです。
サコ ううむ、だから、吉野の川下ってことは、吉野川が山地から平野部に出るあたり、吉野の入り口あたりのことなんでしょうかね。そのあたりの吉野川沿いに「阿田」という地名があって、「阿太の鵜飼い」らの伝承地と思われます。
チナ おお、鹿児島と同じ地名があったんだ。
サコ そうです。
チナ なるほど、そう考えると河尻でもおかしくないか。あれれ?だけど『古事記』では、それに続いて、光るイヒカやイワオシワケ、つまり吉野の国神に会ってから宇陀に入るのよ。これって、地図見ると本命の磐余を迂回する道筋じゃないの?


紀ノ川と吉野

サコ でも宇陀から吉野に引き返す『日本書紀』よりは、『古事記』は、紀ノ川の河口から遡って吉野川の川尻にたどり着き、そこから宇陀へとスムーズですよね。ただその前、熊野で全軍失神して八咫烏が登場したという、あの話が行軍を大回りさせている。そもそも、熊野から上陸して、あの険しい山々を越えて宇陀に入るというのは、いかにも不自然なので、熊野での話はあとから挿入したんじゃないですか、ね。
チナ いろいろ工夫したんだろうね、重要な伝承を取り込みつつ合理的な行程を作るのに。
サコ ともあれ、記紀ともに、吉野と宇陀に妙にこだわっている。紀ノ川を遡って、すっと奈良盆地に入ってしまえばいいのに、わざわざ吉野・宇陀を通る。
チナ 奈良盆地の西側の生駒山から入ろうとして、ナガスネヒコと戦った時、天皇は太陽の子なのに、西から東に攻めた=太陽に向かって弓矢を射たから負けたのだ。だから、太陽を背にして東から西へ侵攻すべきなのだって、変なリクツをこねて。
サコ ですよね。で、吉野や宇陀って、何やろ?って話です。
チナ ふうむ。

◯吉野のご馳走

サコ 実は、今回あらためてベンキョーし直していて、吉野とは何ぞやというのは、ものすごく大きく深いテーマであって、そう簡単に説明できないってことがよくわかりました(;^ω^)
チナ なんや、それ(;^ω^)
サコ しかし、言いだしっぺの責務は果たさねばならぬので、細部にこだわらず大胆素敵ってことでいきます。
チナ あはは、そう願います。
サコ まずは、吉野で登場する変な人達。
チナ はい、尾っぽがあったりする国神。
サコ 天皇制が始まる以前、大王たちの時代から、人々はそれぞれの収穫物を大王家に献上する伝統がありました。山の民は山の幸を、海の民は海の幸を、農民は農作物を、という具合に。それがニヘ(贄)ですね、ニヘモツのニヘ。それから応神天皇条にも、吉野の国巣人がきて醴酒を献上して歌を詠んだ。そして、それ以後土地の産物(栗、キノコ、アユの類)を献上することになった、という記事があります。これが、本当に応神天皇の時代の出来事かどうかは別として、まず言えるのは、吉野は、豊かな土地の産物を献上することを通じて、大王・天皇家と密接な結びつきをもったということがあります。
ただ、ヤマト大王家は基本的に三輪山周辺を本拠地とするもので、奈良盆地の南端の飛鳥の地が政治の舞台になるのは推古朝以降、主に7世紀です。だから、飛鳥のさらに南方にあたる吉野が大王・天皇家と繋がりをもつのも、その時期ではないかと思います。
チナ なあるほど、あまり古い時代の話ではないということね。
サコ はい。宇陀で苦戦していたイワレヒコが、天の香久山の土をこっそり取りにいかせて、その土で戦況を占うという話があります。天の香久山は、藤原京を囲むようにある大和三山の一つですが、大和三山が注目されはじめるのも7世紀だといわれています。
チナ イワレヒコ伝承そのものも、7世紀頃の価値観が投影されているわけだ。
サコ そういうことです。『日本書紀』の隼人関係の記述のうち、事実として信頼できる記事は7世紀後葉の天武朝以降に集中します。
チナ へぇ〜、天武って、妻のウノノササラ皇女(後の持統天皇)とともに、新しい国づくりをした人だよね。天皇制も彼の発案説あるし。
サコ そうです。

◯吉野と天皇家

サコ そこで次の論点。古代史で吉野といえば、その天武が即位する前、後継者問題で兄の天智に疎まれて、身の危険を感じて逃げ込んだことで有名な土地なのです。
チナ あ、そうだそうだ。
サコ そこから挙兵して、壬申の乱が始まる。
チナ 思い出した、兄の天智に殺されそうになった、そこで「王位はあんたの息子の大友皇子に譲ってください。私は出家して、吉野でお兄ちゃんの病気平癒を祈ります」って、とっとと吉野に遁走した、って話になってたよね、たしか。
サコ はい、そう言いながら挙兵して、大友皇子を自殺に追い込み、自分が即位するんですけどね。
チナ 「出家して吉野へ行く」ってことは、吉野は仏教の聖地だったの?
サコ 『日本書紀』欽明14年条(553年)に、天皇が命じて仏像2体を造らせて、それがいま「吉野寺」にある、という記述があります。この「吉野寺」ではないかといわれているのが、吉野郡大淀町にある比曽寺という7世紀中頃の古い寺院跡(国史跡)です。
ただ、その時期のお寺は、奈良盆地近辺にはあちこちあるので、なぜ吉野?という疑問は残ります。
チナ そうだよね。
サコ おまけに、天武の皇后だった持統天皇は、在位9年間に32回、吉野行幸しています。数え間違いがあるかもしれないけれど(;^ω^)、とにかくしょっちゅう吉野に行ってる。
その時に滞在した「吉野宮」とされるのが、国史跡・宮滝遺跡(吉野町)です。
チナ あら、年間3,4回行ってるわけか。
サコ そうなんですよ。1回に6〜9日間、滞在することもあるので、政務は大丈夫なのかなと思うほどです。
チナ 政務ってものがそう忙しくなかったのか、あるいは『日本書紀』の記録がヘンなのか。いずれにしても『日本書紀』は吉野をやたら重視してるわけよね。
サコ 不思議ですよね。吉野って、乙巳の変(645年の大化のクーデター)以前には、それほど重要な土地として出てこないんですよ。
チナ ふうん。
サコ そこで、大淀町教委にいる後輩に尋ねたら、いろいろ興味深いことを教えてくれました。
チナ おお、持つべきものは、優秀な後輩!
サコ はい(;^ω^) まず、最初に「出家して吉野に入」ったのは、舒明天皇の第一皇子の古人大兄皇子。
チナ ええっと、舒明は、記録上、初の女帝である33代推古の次の天皇、なんだけど、推古と血縁関係は無く、推古の夫・30代敏達と別の妻との間の子、だったね。
サコ はい。31代用明?32代崇峻?33代推古と、蘇我系の大王が続いて、6世紀末から7世紀前半は蘇我の全盛期なんですね。34代の舒明は、久しぶりに非蘇我系からでた大王です。
チナ で、その舒明の皇后が35代となる女帝の皇極、つまり天智・天武の母ね。彼女は一度引退して譲位されたのが彼女の弟の36代孝徳。その後、ふたたび即位した。2回目は37代斉明。
サコ はい、その通りです。蘇我系大王が続いて、蘇我の力が大きくなりすぎたことを危惧した中大兄(後の天智)が蘇我蝦夷・入鹿の親子を滅ぼしたのが、645年の「乙巳(いっし)の変」。われわれが「大化の改新」と習った出来事の本質は、蘇我の宗本家を滅ぼすクーデターだったのだ、というのが最近の見解です。
チナ 私も大化の改心しか知らんかった。クーデターとは認識してたけど。そうか、教科書も、どんどん書き換わるのねえ! イッシの変かあ、イッシ乱れたわけだ。
サコ …ええ、続けます。乙巳の変の後の新体制のトップとして、中大兄が担ぎあげたのが叔父さんの孝徳であり、母親の斉明ですが、実質的には中大兄が仕切っていたようです。
チナ で? 古人大兄皇子というのは34代舒明と蘇我入鹿の妹との間にできた子で、だから、天智・天武兄弟から見ると、ええっと、母違いの兄に当たるわけか。
サコ そうそう。しかも、舒明の皇子のなかで古人大兄がいちばん年長ですから、35代皇極の後継者として有力候補でした。しかし、なんせ母親が、乙巳の変で滅ぼされた蝦夷の妹ですからね。皇極が自分の血をひく中大兄(天智)を後継者にしたがっていることもわかっている。そこで古人大兄皇子は、自分の立ち位置の危うさを察知し、出家して吉野に入ると宣言し、その場で剃髪して袈裟を着た。
チナ おや、大海人皇子の話とそっくり。
サコ そうなんですよ。古人皇子は吉野太子とも呼ばれました。結局、古人皇子は謀反の疑いをかけられ、中大兄に攻め滅ぼされたんですけどね。
チナ 名前も関係もややこしいから、系図を見ながらいきましょ。


(松田度「僧形の皇子たち〜いざ吉野へ」大淀町地域遺産シンポジウム資料より)

チナ あ、そういえば、仏教の普及を推進したのが蘇我氏だったね。推古や、その補佐役だった厩戸(聖徳太子)、みんな蘇我族で、仏教に熱心。
サコ はい。そして、飛鳥はもともと蘇我氏が開発した土地なので、その南の吉野も、蘇我氏の息がかかってるかもしれないですよね。
チナ ふむふむ。
サコ そこをわが後輩が鋭く切り込んでいます(松田度「僧形の皇子たち〜いざ吉野へ」大淀町地域遺産シンポジウム資料)。
チナ おおお。
サコ つまり、蘇我氏の血をひく古人皇子が吉野に逃げ込んだのは、吉野が蘇我氏の領地だったからだと彼は考えています。乙巳の変で蘇我宗本家(蝦夷・入鹿)が滅亡した後、その領地はおそらく同族の蘇我倉山田石川麻呂が引き継いだ。石川麻呂の娘・越智娘が、中大兄に嫁いでいるし、乙巳の変以後に右大臣に任じられていますから、信望は厚かったのでしょう。しかし、石川麻呂も謀反の疑いをかけられて自殺しています。これも、中大兄らの陰謀だといわれています。で、越智娘が生んだ娘2人のうちの1人が、天武の皇后となるウノササラ、後の持統女帝です。彼女は、父・中大兄に母方の祖父石川麻呂を殺されたことになります。
チナ うへぇ〜、テレビの推理ドラマより凄まじいドロドロな権力抗争劇(;^ω^)
サコ 石川麻呂が亡くなった後、吉野を含めた蘇我の所領は新政権に没収されたでしょう。石川麻呂の没後、まもなく母の越智娘も姉の大田皇女も甥の大津皇子も亡くなって、ウノササラが新政権内で石川麻呂の血統をひく唯一の存在となりました。だから彼女が、蘇我宗本家由来の財産であった飛鳥・吉野を継承したのではないかというのが、わが後輩の説です。大海人皇子が吉野へ逃げ込んだのも、そこが妻の経済基盤であったからではないか、という見方もおもしろい。そう考えると、ウノササラが異常なほど吉野に通ったことも、説明できそうな気がします。
チナ なるほど、すっきりしますね。つまり、吉野が特別な意味をもったのは、政治の舞台が蘇我氏の開拓した飛鳥に移った7世紀で、それは推古女帝や聖徳太子、蘇我馬子ら蘇我氏の全盛期でもあった。吉野もおそらく蘇我氏が開発した土地であって、天武・持統の夫妻にとっても特別な土地だった。そして天武は天皇制を創始した。その開祖を語る初代天皇イワレヒコ伝承に、当時の現代の天皇家や宮中祭祀に奉仕する吉野の国栖や、天皇家と縁の伝承をもつ阿多隼人が、特別な感じで登場する。ということで、吉野の話はどうやら天武・持統朝の影響ありってところかな。
サコ そんな気がします。吉野首は、天武12年に連姓を賜っていますしね。

◯宇陀

チナ その吉野首の祖が、井戸から出てきた、しっぽのあるイヒカでしょ。この異様な姿は何なの?
サコ さて、なんでしょう(;^ω^) 気になりますよね。吉野には、丹生神社がいくつもあるので、もしかして水銀の鉱山で働く人かなと思って、調べてみたんです。
チナ おお、おもしろい着眼ね。
サコ そうしたら、水銀の鉱山は吉野郡ではなく、宇陀郡にとても多いことがわかりました。分布図は、昭和(戦前)に掘削されたものがほとんどですが、『万葉集』に宇陀の辰砂(水銀)を詠んだ歌があるので、古くから使われていたことがわかります。
「大和の 宇陀の真赤土(まはに)の さ丹つかば そこもか人の わをことなさむ」(巻7-1376)
現代語訳:大和の宇陀の真埴で貌に紅化粧をしたら、そのことで世間の人はわたしをなん
と噂することでしょうか。あの人が振り向いてくれさえすれば

チナ 化粧に使ったのね。京劇の美人の化粧は顔全体が赤いでしょ。あんなふうだったのかも。それにしても水銀は有毒なのに。もっとも、日本式の白塗りの白粉にはやはり有毒な鉛が入っていて、病気になるひとが多かった。昭和初期には鉛を使うのは禁止されたそうだけど。うん、化粧は女の敵だ!
サコ やば(^_^;) 話をもどします! 水銀朱は、弥生時代から古墳時代に、墓に播いたり、盾などの武器や道具類に塗ったりします。水銀朱は、酸化鉄のベンガラの赤色よりもキラキラ輝いて美しいので、貴重品とされました。


水銀鉱山の分布

サコ 「丹」は丹砂(朱砂、辰砂)または水銀のことをさします。丹生神社の分布は、紀ノ川流域に多くあります。とくに紀ノ川下流の丹生都比売(にふつひめ、にうつひめ)神社の伝承が面白いんです。
チナ へええ、ヒメだから女神のお話なんだ。
サコ はい。『播磨国風土記』によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。


丹生神社・丹生関連神社の分布

 当神社によると、全国にある丹生神社は88社に対して、丹生都比売大神を祀る神社は摂社を含めて180社以上あって、当社がその総本山だそうです。
 奈良時代に書かれた祝詞「丹生大明神祝詞」によれば、丹生都比売大神は天照大御神の妹神で、稚日女命ともいうとのこと。そうすると、紀伊半島の東岸に伊勢神宮と天照大神、西岸に天照の妹の丹生都比売がいるという、対照的な位置関係を示します。
伊勢神宮が本格的に整備され始めたのが持統女帝の時期だとされています。だとすれば、丹生都比売神社が重視されたのも、同じ頃ではないかと思います。
チナ ほほう、してその意味は?
サコ いや、まだよくわからないのですが、天照大神の妹という位置づけは、天照大神が高い神格を確立してこその話だし、場所的にみると、伊勢神宮が日の出、丹生都比売神社が日の入りというセットかなと(;^ω^)
 で、結局、体が光って尾のあるイヒカさんと水銀鉱山とは、うまく繋がらなかったのですが、宇陀という土地は、天武にとって思い入れのある土地ではないかと思います。というのは、壬申の乱で挙兵する時、大海人皇子(後の天武)は家族と身内の者を連れて、吉野から宇陀に抜け、宇陀で体制を整えて、そこから伊賀を通って自分の勢力基盤である美濃にでることが出来ました。天武は、天皇制を創設した人です。初代天皇となるイワレヒコ伝承で、吉野と宇陀にこだわるのは、天武・持統の時期の影響ではないかという気がします。

◯シメ

チナ てあたりで、終わりますか。面白いからつい長くなる(笑)。記紀はハマルね!
サコ はい。記紀に書いてあることから、実際には、何が起きたのかを考える。推理小説みたいですよね。
チナ そそ、そこが大事。記紀の記述と現実を混同しないように、私もうんと気をつけてる。なんの記録でもそうよね、誰がなんのために記録したか、それを常に頭に置いて読み取るのが大切。というか、それが科学的な読み方。記紀は、7世紀ごろ大和地方に確立し天皇制を創出した時の権力が、その正当性を内外に誇示しようと全知全能を傾けて記したもの。それは間違いないでしょう。そして今、実在する天皇家の大切な家伝である。これも間違いないでしょう。そのように読めば、おのずとイワレヒコ伝承成立の背景も見え、時代も推測され、「神武天皇は実在した」なんてことは、ない、とわかる。
サコ 無理ですね。
チナ ま、信じる人がいてもいいけどね。アメリカには聖書をまるごと事実だと信じている団体があるくらいだから。信じるのは自由。でも、信心をひとに強制してはいけないよ。特に学校とか国とか、権力持ってるとこはね。
サコ そうですね。世の東西を問わず、時代を問わず、権力者は、歴史を都合のいいように利用します。だから、教育とか政治とか、他の人に与える影響が大きい人は、信心ではなく、歴史をきちんと学んでほしいし、そういう権力者のウソに騙されないために、われわれもきちんと歴史を知っておく必要があると思います。
チナ あ、そうだ、記紀のウソを見抜くのが歴史学だから、歴史のベンキョーをすれば、政治家やマスコミのウソを見抜く力もつくね!
サコ その通り!
二人 歴史は謎解き、オモロイね!!

≪おしまい≫