第283回 個人と国家

中山千夏(在日伊豆半島人)

今年の夏は扇風機、3回ほどしか使わなかった! お天気もじめじめ続きで、ご近所の虫や小鳥やケモノは、ずいぶん辛かったんじゃないかなあ。サコちゃんも熱出したりしたし。もうだいじょうぶ?

さてさて、昆虫と考古学から飛躍するんだけど、まんざら無関係な話じゃないと思うの。このところ考え込んだ話。聞いてね。

まだウーマンリブ始めて間がないころ、まったくわけわかってなかったころ、20代の初めごろね、故・吉武輝子さんのお供でちょいと高級な週刊誌のインタビュー受けたの。男社会マスコミがようやくリブをマトモに見ようとしだした、そんな時代。
記者(男性)の質問は私にはちんぷんかんぷんなことばかりだった。吉武さんもしばしば首をひねって、説明に苦慮していたけれど、やがて苛立ったように言った。「私たちは天下国家は語らないの。どうでもいいのよ」。そして私に、ねーっと同意を求めた。もちろん私は大きくうなずいた。

内容は忘れたけれど、おそらく教養ある記者氏は、天下国家論のなかにウーマンリブ運動を位置づけようとしたのだろう。今にしてそう思う。そして天下国家の問題に今よりもっとうとかった私には、だからちんぷんかんぷんだったのだ。
リブは人権運動である、人権は個人に属するものである、という理解ができてくると、「私たちは天下国家は語らない」という吉武さんの言葉が、リブの本質からのものだとわかってきた。

それからン十年。おりにふれて国家と個人について考えてきた。見れば見るほど、国家なるものが嫌いになり、私は「国家を語らない」ようになった。
けれども、それでいいのだろうか、という思いはずっと拭えない。現に一国家に属している。その影響は無視できない。グローバル化が盛んになると、国際社会は国家単位で動いていると見えてくる。さらに日本国政府は国家主義の色を強めてきた。メディアで流行っている論客は、大方が国家論、また国家を単位とした国際社会論を語っている。そんな状況のなかで、反原発や反戦や人権を主張するウンドウをする時、ただ「国家は嫌い、語らない」ではすまないなあ、と私も考えてしまった。
そして最近、少し整理がついたわけ。

まず、個人と国家とは、まったく位相が異なる、ということに気がついた。今更ながらもいいところでしょ。

◯個人とは人間だ。自然の産物であり、不変の生命だ。
個人に属する文化は、いわゆる人文―芸術、思想、考古など―である。
個人の本性は、平和に寿命をまっとうすることである。
◯国家とは人類の発明による組織体、可変の無機物だ。
国家に属する文化は科学技術であり経済である。
国家の本性は、他と戦闘してより巨大強力になることである。

ここで気づくのは、世で政治社会論とみなされているものの大半は、右であろうが左であろうが、多少とも国家(の政策が国家におよぼすところの影響)を論じている、ということだ。そうでなければ政治論と認められない傾向さえある。それは大きな誤りであり、またそれが一般人民を政治から遠ざける一因ではなかろうか。
国家を主題に語る政治論があるものならば、個人を主題に語る政治論もありうるはずだ。そしてむしろ、後者のほうが人類には重要だろう。その位相からして、個人主題の政治論なら、自然や生命という人類にとって第一に重大な課題を扱うことができる。国家主題の政治論では、科学技術や経済が先に立ち、自然や生命はあとまわしになってしまう。現にそうであるように。
さらに、個人に属する文化(いわゆる人文)を理解し論ずるのに、必ずしも特別な知識や情報はいらないのと同様に、個人主題の政治論は、特に知識や情報がなくても、原理的に誰でも考え論じられる。人間、いかに生きるべきか付き合うべきかについては、誰もが一定の考えを持っているものだからだ。
いっぽう国家を主題に語る政治論は、国の要人や役人やその方面の学者やジャーナリストしか入手できない特別な知識や情報がなければ語れない。時に流行する元官僚や元軍事関係者の政治論はその好例である。そして、その論が正当かどうかを自分で吟味するのは、一般人民にはまず不可能だ。ただ聞くだけ、論者の言を信じるか信じないかしかない、という疎外された政治的立場に一般人民は置かれてしまう。

そこで、一般人民の主体的な政治参加を目するのであれば、個人を主題にした政治論こそが大切なのは、言うまでもないだろう。市民運動が盛んになるにつれて、そうした論が注目されているようである。たとえば、原発のコストを、国家の経済政策からではなく、個人の生活と自然と安全から論じるような仕事、また医療内容とその公費負担を、国家の政策からではなく、個人の生活から評価し、健康とはなにかを個々人の幸せから考えるような仕事だ。
こうした政治論を、専門家による「天下国家論」と並べて、いやむしろその上位に置いて評価し、盛んにしていきたいものだ。
もうひとつ特筆したいのは、個人主題の政治論からは、まず、開戦論や参戦論は出てこない、ということである。

以上、たはははは、誰かがとっくにもっとウマクまとめているに違いない考えでありますが、ちょっとね、せっかく考えたから誰かに言いたくて、サコちゃんを(そしてこの欄の読者を)犠牲にしたわけでした〜〜〜〜〜。あは。