在日伊豆半島人=中山千夏
在日山陰人=佐古和枝

チナ 永さんは、妻木晩田遺跡にもよく出かけて行ったよね。きっかけはどういうことだったの?
サコ はい。2001年の年末、千夏さんに誘っていただいて、紀伊国屋ホールのイベントの開演前に初めてご挨拶しました。そしたら、開演冒頭の永さんのお話が、年明けからNHK教育番組で “人はなぜ歌うのか” が始まるということで、歌の歴史について。それが、「遺跡から楽器は出土するけれど、縄文人や卑弥呼がどんな歌を歌ったかは、発掘ではわからない」というお話から始まったので、私のためにそんな話をしてくださったのかなって、ビックリ感激しました。でも、そうじゃなくて、放映されたその講座の始まりは、本当に縄文遺跡で収録されていて、永さんが竪穴住居に入って「ここでどんな歌を歌ったのでしょう?」って話をされていました。
 それで、永さんにお手紙を書き、考古学談義が始まりました。あの番組がなかったら、妻木晩田に来ていただくまで、もっと何倍も時間がかかったと思います。

チナ ふうん。会うべき時に出会ったのね。永さんはたちまちサコちゃんに興味を持ったと見えましたよ、いや、ヘンな意味じゃなくて(笑)。気がついたら永さんが妻木晩田にお熱になっていたので、お、サコやったな、と思ったもんです(笑) 
サコ へへへ、せっせとお手紙を書きましたから。千夏さんが妻木晩田にひきずりこんでくれた小室等さんも、永さんと仲良しですよね。
チナ そうそう。小室さんは、夢風基金の運動を永さんから引き継いでやっているし。革自連でも仲間だし。
サコ それに、保存運動中にまったく別ルートで知り合った歌手の李政美(イ・ジョンミ、チョンミ)さんとギターの佐久間順平さんも、小室さんと一緒に活動していたりしていて、永さんつながり。さらに、李政美さんが「同じ鳥取県出身だから」と紹介してくれたエッセイストの朴慶南(パク・キョンナム、キョン)さんも、永さんの奥様と仲良しだったとか。みな、奇しくも永さんつながっていて。
チナ なにしろ中学時代から放送界で活躍していたひとだから、興味も多岐に渡っていたし、また旅に明け暮れて日本中、説教してまわっていたから、いろんな分野の知り合いがすごく多かった。ひととひとを結ぶ役割も、ものすごく果たしていたよね。そうそう、キョンちゃんを何かの時に連れて来て私に紹介してくれたのは、永さんだったのよ。
サコ わあ、そうなんですか!
チナ そうなの。「キョンナムとシンスゴ(辛淑玉)がぼくの朝鮮問題の先生」みたいなこと言ってね。で、キョンちゃんと仲良くなって、反暴力のおんなの会をなにかやろう、という話になったら、キョンちゃんがスゴを紹介してくれた。ウンドウは私よりスゴのほうが頼りになるからって。それでこのおんな組が発足したわけよ。
サコ そうでしたね。

チナ そうか、「むきばんだ応援団」も永さんつながりだったのね。
サコ はい、そうです。で、2005年には、前述の永さんつながりの方々に全員集合してもらって、2日がかりの無茶なイベントをやりましたね。
チナ あははは。サコちゃんのことだから、無茶はつきもの。
サコ あの時は、永さんが面白い提案してくれました。妻木晩田では、ノロシをあげた跡がみつかっているのですが、夜に遺跡から参加者全員が携帯電話のライトを照らし、隣の山に合図を送る。「古代と現代のコラボだ」って。
チナ やったの?
サコ やりましたよぉ。向こうの山では、発電機をもちこんで、ライトを照らして返事の合図をしてもらいました。けっこう大変でした(;^ω^) 
チナ 私たちは、その翌日にステージで歌ったり、語ったりしたね。
サコ はい、そうでした。永さんや千夏さん、小室さん、ちょんみさんが遺跡や考古学の話をしてくださると、われわれの手垢にまみれた表現とは違って、新鮮だったり、ストンとくるんです。だから、たんにユーメージンというだけじゃなくて、皆さんに遺跡や考古学のことを語っていただきたくて、エセ興行師サコがあこれこ奔走しました。
それにしても、こんな著名な方々に妻木晩田を応援していただき、ほんに光栄の極みでございまする。すべての発端は、千夏さんです。感謝しています。
チナ んなことないって。サコちゃんの努力と熱意のおかげだよ。あはは、ほめ殺し対決(笑)
サコ 素人の分際で無謀な企画をするもんだから、普通なら永さんは絶対怒ってしまわれるような場面も多々あったはずのに、素人だから許してくださったみたいです。
チナ 永さんが怒るか怒らないかは、ほとんど気分だから。気に入っているひとのことなら、たいてい怒らない。基本、女とゲイには優しかったよ。
サコ あは、オンナで良かった! 
チナ それにサコちゃんは、無理難題言っても、自分のほうも持ち込まれた問題に誠心誠意当たるから、だから永さんもずっとご機嫌でサコちゃんと付き合ったのよ。

サコ そういえば、永さんから出された宿題がいくつかあるのですが、そのうちのひとつが難題で、ずっと棚上げしてきました。
チナ へええ、どんな宿題?
サコ 2004年に永さんが初めて妻木晩田に来てくださった時に、「早く“日本三大遺跡のひとつ”って言っちゃいなさい。日本三大ナントカっていうのは、先に言うたモン勝ちなんだから」って。
チナ うふふ。まさに永語録。日本三大遺跡ってことは、「吉野ヶ里、三内丸山、妻木晩田」が永さんの狙いだったの?
サコ そうです。5・7・5調でゴロもいいでしょ。その時は、さすがにそれは無理でしょって思ったんです。そんなこと言ったら、学界から袋叩きにあうだろうと。でも、ずーっと気になっていました。たぶん永さんは、それくらいの覚悟をもて、それくらいの遺跡にしてみろって、ハッパかけてくださったのだと思うんです。
チナ うんうん。
サコ もちろん妻木晩田も、学術的な価値は高いのですが、ただプロ向けというか、吉野ヶ里や三内丸山遺跡みたいに世間から脚光を浴びるような派手な話題はありませんからね。
それが、一昨年に某大手新聞(大阪版)が、ある遺跡の保存問題に関連して、大きな保存運動で守られた遺跡として、吉野ヶ里、三内丸山と妻木晩田の3つを枠で囲んで紹介していたんです。それを見て、「よっしゃ!」と覚悟ができた。
チナ やったね。永さんのアイデアが実現したわけだ。保存運動という観点で見てくれたわけね、某大手新聞は。
サコ 遺跡の価値は、学術的な評価だけじゃない。遺跡の規模、保存状態、遺跡をとりまく環境、遺跡からの景観、地域住民の活動が盛んなど、妻木晩田はとても多様な価値をもっているんだって、保存運動中からずっと言い続けてきたんです。そこに、保存運動のベスト3という“お墨付き”をもらったから、遺跡がもついろんな価値の総合評価なら“日本三大遺跡”と言えるのではないかって。
チナ なるほど。
サコ 他の人がどう思うかはわからないけれど、私は心底そう思うし、そう言い続けるって、永さんに手紙を書きました。10年かかって、やっと宿題を提出できた心地でした。
チナ 永さんは、合格点くれた? 
サコ もうハガキをあまり書かなくなっておられた時期なので、お返事はありませんでしたが、きっとフフフと笑って合格にしてくださったと思います。
チナ そうだと思うよ。
サコ 2012年の年末、紀伊国屋ホールでお目にかかった時、もうかなりご病気が進んでおられたのに、「今度、妻木晩田に行く時は、楽しいことがいいな。チナちゃんと一緒とかね」と仰って、慌てました。まだ来てくださるおつもりなんだって!で、千夏さんに相談したけど、サラリと交わされて(笑)
チナ あれ、そうだったっけ?
サコ はい。
チナ あちゃ〜そりゃ失礼しました。
サコ それで、2013年5月に、永さんと仲良しの伊奈かっぺいさんにお願いして、「笑って考古学!」という愉快なイベントをやりました。テーマは、妻木晩田v.s.三内丸山、出雲弁v.s.津軽弁。
チナ そりゃ楽しそうだ。

サコ 永さんは車椅子でしたが、とても楽しそうでした。で、その時に、古いつきあいの書店から頼まれた色紙をサラサラとお書きになったんです。
チナ もう文字は書きたくない時期だったはず。
サコ そうなんです。でも機嫌よく2枚も。それで咄嗟に、その年の7月に設置予定の遺跡保存のモニュメントの揮毫をお願いしたら、それもスンナリお引き受けくださり、すぐに書が送られてきました。
チナ 珍しいことだ。なんて書いてあるの?
サコ 李政美さんが作曲し歌ってくれている妻木晩田の歌「おいでみんなここへ」の歌詞の一節です。7月の完成式典にも来てくださいました。
チナ 妻木晩田の一角に、ずっと永さんがい続けるわけね。
サコ そうなんです。ちゃんと「永六輔」の署名もあるので、これも妻木晩田の価値の一つになりますよね。妻木晩田に行けば、永さんに会える。永さんが、ずっと妻木晩田を見守っててくれるような気がします。
チナ 永さんにしてもらったことはたくさん。頼まれて応えたことはほんの少し。そのくせ、永さんをぱっと見て機嫌悪そうだったらシカトする、というひどい妹分だったの、私。でも、妻木晩田については、どちらかというと、永さんにひとつ楽しみを提供したような気がして、ほっとします。なにもかもひっくるめて、永さん、

ふたり ありがとうございました!