第256回 当たり前のことの大切さ

佐古和枝(在日山陰人)

千夏さん、「筋金入りのヨソ者」ですか。実は、私もそう。かれこれ30年近く京都に暮らしていますが、京都市民の自覚はまったくなし。先日千夏さんにご紹介した、文化政策の中川幾郎先生によると、「市民」には3種類あって、@近所づきあいもせず、ただ家に寝に帰るだけの「寝民(しんみん)」、 A一応地域とおつきあいはしているけれど、いずれ故郷に帰るとか、どこかいい町があれば引っ越してもいいと思っている「居留民」、そしてB死ぬまでこの町で暮らすと思っている人達こそ、ホンモノの「市民」。京都の私は「寝民」です。かといって、故郷の米子は、幼馴染みや知りあいは多いけれど、やっぱり「京都のサコさん」、時々帰ってくるヨソ者です。

考古学界でも、学会にはあまり顔ださずに、市民や子ども達の相手ばかりしている変わり種。30年近く勤めている大学も、必要最低限しか行かないから、いまだにキャンパスで迷子になる(^-^;
どれもこれも中途半端ではありますが、自分ではこのビミョーな立ち位置が気に入っています。どっぷり染まりきっていないから、見えることもあるのだ。なんちゃって、言い訳しながら、マイペース。だから、「筋金入りのヨソ者!」「アウトサイダー」っていう千夏さんと同類種。よし、サコもこの路線を貫きます!

ところで、伊東の選挙はどうでしたか?原発反対、右傾化反対の声がこれだけ高まっているのに、どうして選挙となるとこんな結果になるのかなぁと思ってしまいます。人の命よりもお金儲けが優先されているからですね。
先日、福井県の高浜原発3,4号機の再稼働の差し止めを求めた仮処分の申し立てに、福井地裁(樋口英明裁判長)が下した判決文は、素晴らしかった。

「個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。」
「原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである。」
「当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている」
「たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻せなくなることが国富に喪失であると当裁判所は考えている」
「被告は、原子力発電所の稼動がCO2排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが、原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって、福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。」

そうだ!その通り!拍手喝采!! でも、これって、みな当たり前のことですよね。当たり前のことが当たり前でなくなっていることに、怖さを感じます。

先日テレビで、外国の子どもが「日本はそんなに地震が多い国なのに、なんで原発を作ったの?」と質問していました。ほんとに、そうだ。子どもたちの素朴な問いにちゃんと答えられないようなこと、しちゃいけないよね。しっかりしよう、大人たち!