第221回 ただ心ある行動なのに

中山千夏(在日伊豆半島人)

いいこと言ってるのね!
アインちゃんも正造さんも。

アインちゃんはコピーライターの素質、あったんとちゃう? 私でもいくつか知ってるくらいたくさん、世に残る名コピー残してるもんね。
それだけにツッコミたくなるのもある。
「簡単なら、早く放射性物質を人畜無害にしてよ」とか。あははは。
「人間の邪悪な心がそれをさせないのだ」と返されるかな? それなら、人間の邪悪な心を変えるのはプルトニウムの性質を変えるよりも難事なので、結局、放射性物質の毒性は人間には無くせない、ということになって、計算が合いますw

しかし。
「科学はすばらしいものだ。もし生活の糧をそこから得る必要がないのなら」
「この世は危険なところだ。それは、悪いことをする人がいるためではなく、それを見ながら、何もしない人がいるためだ」
このふたつにはツッコミどころがない。
フクシマ事故でもしみじみ感じたものね。
食うために科学し、食うために悪を放置する。
多数人類がそうなったら、地獄だ。もはやそうなのかも。

そういう世の中では、善行の評価も、おかしくなるんじゃないかな。
福島原発事故で印象的だったことのひとつに、吉田所長人気があった。前にも書いたかもしれないけど。

事故当時の福島第一原子力発電所所長。3.11事故に際して、現場を離れることもできる役職だったにもかかわらず、がんとして離れず、陣頭に立って果敢に処理作業に取り組み、2011年9月、食道癌で入院、2013年7月、死去。
詳しくは知らないけど、私はそう理解している。

生前、「マスコミデビュー」当時のネット人気はホットだったよ。
若者に人気だった。ヨシダショチョウというのが一定の意味を持つほどで、その意味は「聖人」の類だった。
ちょっと東電の対処を批判すると、「悪口ばかり言ってないで、ヨシダショチョウの奮闘を見よ! その努力を見守れ!」みたいな反撃がおきていた。
親原発派だけかと思っていたら、反のほうにもファンは少なくなかったみたい。
東電などの事故責任を問う告訴団(先日、露わな門前払いを食わされながら、努力続行中)の準備書類に、被告訴人のひとりとして吉田所長の名があった。
それを疑問視する若者が、コチラ側にもいたのだ。理由は「汚染現場に残って、あんなに働くなんて、素晴らしい。勇敢だ。なかなかできることではない。そんなひとに責任を問うのはどうかと思う」。

これって、アインシュタインの言葉を借りれば、「生活の糧」のために「なにもしない人」があまりにも多いので、普通の行動が輝いて見えたんじゃないの?

経歴によると、吉田所長は原発で「生活の糧」を得てきた。そして、かつて、吉田所長の属する部署が「そんな大津波はおこるはずがない」と判断して、福島原発を推進したと聞く。
であれば、あの事故を眼前にした時、愕然とし、責任を痛感し、事故の収束に生命を賭するのが、普通に心ある人間だろう。
原発を推進してきた責任者であるのに、けろりとして保身ばかりしている、大多数電力マンや学者や役人や政治家のほうが桁外れに異常なのだ。

吉田所長が感じた(であろう)とおり、吉田所長には、福島原発を推進した東電役員のひとりとして、福島原発事故の責任が明らかにあった。それは、吉田所長に心があろうとなかろうと、否定出来ない道理なのだ。善人だろうが聖人だろうが、社会的責任は問われなければならない。
それなのに、普通に心ある行動が、社会的責任を不問にするほどの神聖な価値を持つ、と考える若者が少なくないらしい。
そう感じてしまうほど、普通に心ある行動が珍しい世の中になっている。

吉田所長と、ほかの大多数東電社員(特に役員)との違いは、なんなのだろう、と思う。
組織と自分、社会と自分の距離感に答えがありそうなのだけれど、ううむ、わからん。

ともかく今は、正造さんの正論をよく噛み締めておきましょう。
「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」