第205回 ■年頭おんな組的暴力考■

中山千夏(在日伊豆半島人)

そうだあ!
婆さんはウルサクなければ価値がない!
ウルサイだけで存在意義があるのだ!

ってわけでwwww

先日、伊豆シャボテン公園の名誉園長、チンパンジー調教31年の堤秀世さんの定年引退公演を観にいったの。感動した。
それはそれとして、思ったんだけどね、ほかの動物と同じことをしているのに、チンパンジーは、なぜか浅ましく見えない? だいたいサル類はそう見えるんとちゃう? 片手で脇腹かきながら片手で持ったバナナ食べてるチンパンより、顔中血だらけにして口だけで獲物食べてるライオンのほうが、高貴に見えない?

それって、チンパンはあまりにもヒトに似ているので、彼らにとっては自然な姿勢や仕草や行動が、まるで著しく「行儀の悪い人」に見えるからだと思うんだ。
実際、彼らには、いいも悪いも「行儀作法」ってものがない。思えば「行儀作法」は人間文化の代表、というか人間文化の別名みたいなものだ。
だってどんなガサツな人間にも、それなりの「行儀作法」がある。そこがチンパンとは決定的に違うところ。

チンパンも時に非常に暴力的になるよね。怒るとすごい。自分の種を優先するための子殺しや、縄張りを守るための集団暴力もふるう。
けれどもサコちゃんが言うとおり、チンパンは人間ほどの同類大量殺戮はしない。てことは、同類大量殺戮はサル類としての特色ではなく、武器を用いることも含めて、人間という種族の特色、つまるところ、動物にはない人間の特色「行儀作法」の問題でしょう。

チンパンと近縁だとしたら、確かに人間には生来暴力性がある。
「だから人間の暴力をなくそうなどというのは無理な話なのだ」式に諦めて、むしろ暴力性を野性的なものとして擁護するような論や芸術があるけれど、私はそれ、間違いだと思うわけ。
さっき考えたように、同類大量殺戮を代表とする人間の暴力は、サル類の本能ではなくて、きわめて人間的な「行儀作法」の範疇なんだから。

250万年前だっけ?言葉を得た人類は、戦火が広がるかたわらで、他人と円滑に付き合うために「行儀作法」を創造し続けてきた。秩序と平安を保つための複雑な儀礼や契約を発達させてきた。さしずめ憲法第九条は、人類が到達した最高最良の「行儀作法」だね。
だから今後も、その方向で「行儀作法」は創造され続けていくと思うよ。

とはいえ、昨今の世界の行儀悪さには、しばしば絶望しかかりますね。
大小のカネの亡者が、昨今の戦争の大きな動機であることは、間違いないよね。くれぐれも拝金教に染まって、彼らを助けないように心しなきゃね。

それともう一つ、命がけを尊しとする価値観、これが曲者だと、ますます思うようになった。
他人の命にせよ自分のにせよ、命がけでことをなそうとするのは、いかんです。
衝動的突発的に命をかけちゃうのは仕方ないけど、熟慮の末にかけるのはあきまへん。
たとえ貫こうとするものが正義であっても、愛であっても、いやそうならなおさら、ちょっと待て。ちっともかっこよくない。たいていひと迷惑な結果を招くだけなんだから。

だって命がけは暴力そのものなのだからね。
尊い暴力なんかない。
聖戦なんかない。

そうとしっかり認識していれば、恍惚として兵士になって戦争の片棒担ぐ恐れはない、と思うんだ。

とにかくあんた、命あってのモノダネだっせ!