そう。千夏さんのいう「時代の制約」をみきわめること自体が、歴史学徒の仕事なのです。狩野亮吉の発言、気になって探してみたけどみつからず、タイムアップで、ごめんなさい。きっと安藤昌益と出会う前のことでしょうね。あるいは、そもそも私の記憶違いだったのかなぁ(*_*) 確かめます。
さて、話はガラリと変わりますが、先月、鳥取県境港市で開催された第2回全国コットン・サミットで、コーディネーターを務めてきました。この話をもちかけられた時、私は綿も木綿も専門外だし、いくらなんでも無茶ですよって言ったんですよ。でも、そうじゃないって、担当者が粘るのでした。
いま、国産の綿は、安い輸入綿に押されて栽培されなくなり、絶滅危惧種に近い状態なのです。境港市が日本最大の綿の産地なのですが、その面積はわずか2.6ヘクタール。綿は、もはや農水省の統計にも入っていないそうです。
「妻木晩田遺跡を破壊の危機から救い、市民の力で蘇らせた手法を、国産の綿栽培にも応用して欲しいんです」そんなふうに言われたら、断わるわけにいかなくて(⌒-⌒; )
このサミットに参加したおかげで、綿について多くのことを学びました。以下、その学習成果のご報告。
境港市と隣の米子市にまたがる弓ヶ浜半島は、中海と日本海を区切るように南北に発達した砂地の半島です。だから、農業には苦労した地域ですが、江戸時代の初期、わが国では早い段階に綿栽培を始めて、鳥取藩の一大産業にまで育てあげました。綿は塩分に強いし、弓ヶ浜は地下水が豊富で井戸を掘れば水が湧きました。明治時代には弓ヶ浜全体で8750もの「綿井戸」があったそうです。
綿の水やりは嫁の仕事で、「嫁殺し」と言われるほど過酷な労働でした。女性達の奮闘とたゆまぬ品種改良のおかげで、江戸時代には全国5位の生産高を誇り、鳥取藩を現金収入で支えた重要産業でした。弓ヶ浜半島は両側が海なので、浜で獲れる大量の鰯の干鰯とともに、海藻を肥料に使ったためコストも安くて済みました。ご先祖さま達の知恵と工夫に感服!
伯耆国の綿だということで「伯州綿」と呼ばれたその綿は、砂地で育つためか真っ白で美しく、また弾力性・保温性は抜群の優品で、大正11年には天皇家に献上されたそうです。
伯州綿は繊維が短く弾力性があるので、布団や綿入れなどの中入れ綿として出荷されました。繊維が短いと細い糸に紡ぐには適していないのですが、農家の女性達はその綿を手で紡ぎ、家族のための衣類や布団を作りました。そこで開発されたのが、「浜絣」と呼ばれる絵絣です。農家の主婦の手仕事とはいえ、鳥や蝶、鯉、桜などさまざまな図案が工夫され、浜の女性達の家族愛を感じます。浜絣は、昭和50年に国の伝統的工芸品に、昭和53年には鳥取県の無形文化財に指定されています。私の知人が久留米絣のお店に立ち寄った時、「鳥取から来た」と言ったら、「日本一の絣の県ですね」と言われたそうです。