第195回 ■安藤昌益とアイヌのこと■

中山千夏(在日伊豆半島人)

自然と歴史と人間…といえば、不思議な本を読みました。いや、正確には不思議なひとについての本、だけど。

『安藤昌益の世界』(石渡博明、草思社、2007年)

〔日本の歴史上、もっとも独創的かつ自律的で個性的な思想家・安藤昌益(あんどうしょうえき 1703〜62)とその著『自然真営道』(しぜんしんえいどう)は、いまでは中学校・高等学校のほとんどの歴史教科書に取り上げられているにもかかわらず、その実体はほとんど知られていないに等しい。〕

と始まるんだけれど、私なんか、これ読むまでまったく知らなかった。
私も仲良しだった哲学者の久野収さんのそのまた先生、ギョーカイでは反権威に生きた桁外れの大学者として名高い(そうです(^^ゞ漱石『吾輩は猫である』のモデルだそうで。いや猫じゃなくて、くしゃみ先生の(^^ゞ)その狩野亨吉が、埋もれていた『自然真営道』を知り、読んでびっくり、1908年に「大思想家あり」と題する談話をさる教育専門誌に発表したのが、現代における昌益研究のきっかけになったとか。



昌益は幕府の依頼もある著名な医者であり、講を開き、弟子もたくさんいた。著書もあった。それでも埋もれた。そんなひとと思想が、たくさんあるんだろうね。その理由を著者は、

〔…伝記的事実がほとんど残っておらず、同時代のあれこれと結びつけて紹介することが困難なばかりか、きわめて独創的かつ自立的な思想世界を構築したため、同時代の誰彼とひとくくりにして何らかの系譜に納めての紹介ができないからである。〕

と言っている。乱暴に言えば、同じ有名学者でも、派閥に属しているひとの、多数派の思想しか、なかなか後世には伝わらない、ということだろう。

本書に垣間見たところでも、土台が陰陽五行説用語であるうえに、造語や、独自の解釈で漢字を用いることが多いので、私ごときには難解このうえない。著者の懇切丁寧な解説で、やっと、昌益のなにが現代の思想家たちを驚かせたのか、おぼろげにわかった程度。

そして思う。もし昌益の思想が脈々と伝わっていたならば、帝国主義は回避できた、かもしれない。男女平等性解放はもっと早く進んだ、かもしれない。赤穂浪士や大将軍を英雄視する大河ドラマはなかった、仏陀や孔子崇拝もなかった、それで儲けようとする輩もなかった、金儲け第一にはならなかった、いたずらに農地を潰して原発や駅ビルを林立させることもなかった、かもしれない。

赤穂浪士が現在形で賛美されていた時代に、現代人すら到達していないほどの徹底した封建社会批判、仏も帝王も聖人もまとめての権威者批判、世界中の帝国主義批判、人間みな平等である、耕作こそがひとの正道、作って食って子をなして日々生きるのが最高の人道、政治も法律も学問も、権力者が弱者から収奪する手立ての悪行に過ぎぬ、てな思想を表現するのだから、造語や造字や漢字の独自解釈が多用されたのも、無理ないね。
ってわけで、昌益について語れるほどに理解はできていないんだけど、ひとつだけ感心したことを話したい。

世界の国々を評論する巻で、昌益は「日本国」のほかに次の国々を論じているという。

東夷国(とうい。アイヌモシリ)

朝鮮国

漢土国

北狄国(ほくてき。中国東北部からロシア東部)

天竺国(てんじく。インドインドシナ)

阿蘭陀国(オランダ)

西戎国(せいじゅう。西アジア)

南蛮国(東南アジア)

烏馬国(うば*。オーストラリア西北部)

琉球嶋

 *烏馬国の馬には口偏がつく

長崎で通訳をしていた者が弟子にいたほかは、昌益に外国への直接の窓口はなかった。それが鎖国時代の一般教養人の状況だったろうし、上記の国々を「日本国以外の国々」と認識するのは当時の一般教養人の感覚と見ていいだろう。琉球だけ「嶋」である理由は私にはわからないが。
そこにアイヌが屹立してあることに私は感動した。この時代のほうが、現代よりずっとアイヌを正しく認識していたのね。
そしてこの巻で昌益は、侵略する国を激しく非難しているそうだ。足場が完全に侵略される側にある。
感心せずにはいられない。あの時代に豊富秀吉と神功皇后の朝鮮侵略をも厳しく糾弾しているというから、自由に発言できるのにふたりを有難がっている現代知識人より、よほど勇敢、慧眼、人権感覚がある。

そうした観点から、オランダとアイヌを高く評価しているそうだ。アイヌについては──

〔今の世に、夷(えぞ)地において……夷(えぞ、アイヌ民族)、生じて魚菓を食い、精力壮(さか)んにして家を作り、寝寐(しんぴ)・交合をなし子を生じ、夷、生々無窮なり……これ、神農の教えも無く、上・君も無く、政事・法度も無く、人々、直耕・直織して、金銀の通用も無く、欲心も無く、乱世・争戦の軍学書の学問も無く、儒・仏・神・医・老・荘の学法も無く、虚偽・謀計の商売も無く、追従・軽薄も無く、妬み嫉みも無く、善悪の頓着も無く、安閑・無事なり〕

ざっと意訳するなら…今の世にあって、アイヌは生まれれば自然の魚や果実を食べ、長じれば家庭をもって、性交し子をなし、生活になんら困ることはない、ここには、人を上下に分け隔てて苦難を生じるもととなる、神農の教え、権力者たち、政治や法律も無く、人々は自然に呼応して耕し機を織り、愚かな道具である金銭を通用させず、金銭経済に喚起される欲心もなく、よって争わないから戦争のための書物学問や、階級社会の礎となる諸学問も無く、ウソと騙しの商売も、媚びへつらいや軽薄もなく、妬みや恨みもなく、小賢しく善悪にこだわることもなく、のんびり安らかにこともなく暮らしているのだ……これこそ人間の正しい生き方だ、とそう言っている。

理想とする「自然世」のままを、昌益はアイヌ社会に見たらしいのね。
かなり理想化しているかもしれないけれど、今も残るアイヌの民話や伝統文化を見て、こんな憲法第九条のまんまみたいな社会があったのか、とびっくりたまげた経験(三〇年くらい前だな)を持つ私は、昌益の感動が実感できるのよ。

実はこの本、著者からいただいたの。で、著者の石渡さんとは、アイヌ民族の復権運動を支援する集会で知り合ったの。江戸時代の学者を研究しているひとが、どうしてこんな集会の裏方やってるんだろ、と軽く不思議だったんだけど、読んでよおくわかりました。
おそらく石渡さんは、昌益に学んでアイヌ民族に思いを馳せたんでしょう。

私もなんにつけてもアイヌに結びつきそうなものが気になる今日この頃。何か知ることは次の世界が開けることで、面白いよね。「くだらん、それより耕せ、機を織れ」と昌益には一喝されるだろうけど。
でもその当の昌益が学問やってた。「私は耕すかわりに世直しの指南を書き広めるのだ」とか言っちゃって。
つくづく、矛盾は人間の本質なんですなあ…あはははは…